明るすぎる海

これらの文章はすべてフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

実家が売れた

 

 

実家が売れた。おれの実家は今は県庁所在地にあるが、8年くらい前まで県南の山の中にあり、去年死んだ祖父が独断で購入した最悪の立地で40年くらい店をやっていた。祖父は庭が広いのが気に入ったらしく、確かに250坪に店(2階が自宅)と車庫だけが建っており店の前の駐車場を除いても庭の広さは十分すぎ、おれより広い庭で育った人なんてキャンディ・キャンディと中川(こち亀の)以外に知らないくらいなので確かにそれはよかったが、なぜかおれは誰よりも野球が上達せず、それは天性の足の遅さのせいでもあり、カステラが好きな太っちょだったせいでもあったが、父が世界で一番野球嫌いだった(祖父はかつて社会人野球の選手で、ある日、幼い父が祖父について野原へ行くと、祖父はバットを構えて父に投げろと言う、父がボールを投げると、祖父はフルスイングでボールを野原の彼方に飛ばし、父に拾ってこいと命じた。父にとってはそれが野球の唯一にしてすべての記憶だった)のと、何よりもうちの駐車場のコンクリがガタガタすぎてノックができないせいだった。メートル単位で雪が降る豪雪地帯なので、冬場は毎朝ブルドーザーが駐車場の雪を庭に寄せてくれていて(ブルドーザーは本来シーズンあたりの料金を払ってやってもらうのだが、そこの社長がおれの同級生のお父さんで、知った仲なのをいいことに1円も払っていなかった)、おれはずっと駐車場のガタガタをブルドーザーのせいだと思い込んでいたのだが、母にその話をするとそれは違う、始めからガタガタだった、と言う。曰く、祖父が店を建てるときに駐車場の舗装の値段を計算に入れるのを忘れていて、向かいの家のじいさんがコンクリの業者だったのをいいことに(こんな話ばっかりだ)、毎日仕事帰りにコンクリを駐車場にただでおいていってもらって、それを家族全員長靴にスコップで必死でならした素人仕事だからあんなにガタガタになったらしい。それはいいとしても、店を畳んだあと父が不動産屋に売りに出したら建物は0円、土地は700万と言われ大赤字だった。それでも強気で2000万の札を付けて売りに出したら、5年くらい前に奇跡的に1500万出すというキリストのような人が現れ、母は狂喜していたが父は断固として断り(なんでだよ)、去年になっていよいよどうする...?という話で揉めていたときに、父の幼馴染の息子で俺の一個上のリク兄さんという青年が銀行から金借りて1500万円で買ってくれることになり九死に一生を得た(父が一番喜んでいた)。建物と土地はすでに名義が変わっており、しかし店にも二階の家にも車庫にもまだ大量に物が置いてあったから、それを寄せるのを手伝うためにおれも2週間ほど帰省してきた。作業の途中、店に人がいるらしいということを聞きつけ、おれの同級生のお母さんがシュークリームを持ってやってきたり、雪寄せの会社の社長の奥さんが大判焼きを持ってやってきたり、母方の祖母がいなり寿司を持ってやってきたり、父の後輩が大判焼きを持ってやってきたりと毎日色々な人がかわるがわるやってきた(町が小さすぎて大判焼きが被った)。二階にはピアノ(もとは叔母のものだが、母が勝手に自分のものにした)があったためクレーンで回収してもらった。直して海外に売られるらしく、みんなで手を振ってさよならをした。引き出しからは妹が子供の頃描いた絵が無数に出てきたが、芸風がいまと変わらなすぎるし、ほっておくと母親が家族LINEにアルバムを作り始めてあまりにも残酷なのでそれはおれがすべて捨てておいた。

積もり積もった何百冊もの雑誌は、父が高校の後輩を呼んで押し付けようとしたが断られた。人力で動かない巨大な金庫と、階段を通らない二階の家具は、妹の同級生でおれの後輩にあたる福嶋という電気工事士の青年がいて、小学校の近くに1300坪の土地を持ち、ユニックや高所作業車を所有している剛の者なのだが、電話で彼を召喚してなんとかしてもらった(金庫は父の友人の会社が倒産したときに押し付けられたもので、ワイン一本くらいしか入れたことがないくせに1トンあり、運び出すのに大変な苦労をした)。途中、おれが中学まで通っていた竹沢さんという近くの床屋さん夫婦が様子を見に来てくれ、父はどさくさに紛れて、孫がいる彼らにキャンプ道具を譲る約束を取り付け、祖母を送っていく途中竹沢さんの家にキャンプ道具を置き去りにしたが、明確に想定外の量がきて店の横がバリケードのようになり困惑していた。祖母の所有物もなかなか厄介で、祖母は祖父が死ぬしばらく前から10キロ離れた父の実家で黒猫と暮らしているのだが、歳のせいでだいぶ記憶と判断力がやられていて、服を勝手にメルカリで売っただの、写真を勝手に汚しただの、りんごをいいところばかり7個持っていっただのと(最後のは別にいいだろ)、ことあるごとに架空の罪をなすりつけて息子を恨む悪癖があり、そのうえ、昔のものを見るとすべてもったいないもったいないと言い出してきりがないので、祖母を店から隔離した状態であらかじめ何を保管しておくべきがインタビューし、記憶に残っていないものは思い出す前にすべて処分してしまおうという強行作戦に出て、実際、もう歩くことすら十分にできないのに赤い自転車が欲しいと言ったりめちゃくちゃなので、おれも説得を手伝いつつ(自転車錆びててブレーキ切れてるしあぶない、とほんとのことを言った)、なんとか終わらせた。おれは中学の時に同級生からもらったルーズリーフ折りのラブレターを親より先に発見して確保できたため、それだけでも有害な粉塵のもうもうと舞うなかで作業したり、瓶の中で発酵しすぎた謎のすっぱい液体を処分したり、7年前の粘着シートにねずみの骨格標本が大小8個張り付いていたりしたが参加してよかったと心から思えた。しかも帰りに5万円もらえて、時給換算すると散々だが気持ちは大幅にプラスだった。あまりにも多くの物を処分したため、これからは捨てるようなものは買わないようにしよう、とみんなで固く決心したのだが、服とかを売りにハードオフに行ったら、査定待ちのときにハーマイオニーの杖(先っぽが光ってルーモスできるやつ)が1500円なのを見つけてしまい、買おうかどうか真剣に悩んでしまってダメだった。

オリオン座

 

 

 

 大学一年目の春から大学四年目の十一月まで、東一条のアパートに住んでいた。それから三ヶ月くらい、十八条のパン屋さんの斜向かいにあったなっちゃんのアパートにいて、大学四年目の春、なっちゃんと一緒に北十二条のアパートに越した。結局そこには二年住むことになった。東一条のアパートの部屋は広かったけれども大学まではそれなりに遠くて、一年生が取るような一限の授業もまだたくさん残していたおれは、やはり大学に近いほうが出席もはかどるだろうということで、親にお金を出してもらって引っ越すことにした。結局、アパートが遠かろうが近かろうが、そんなことはあまり関係なく、最後まで出席がはかどることはなかった。

 

 その前の年の十二月くらいからおれはなっちゃんのアパートで暮らしていた。なっちゃんは同じ学科の女の子で、おれより後に入学してきたので後輩ということになるけれど、おれは一年生を二回やったので進級したタイミングはおなじだった。しかし、おれは三年生も二回やったので、なっちゃんのほうが先に卒業していった。なっちゃんは精神を病んだぼろぼろのお人形さんだった。一緒に暮らしはじめてわかったことだけれども、なっちゃんは感情の女の子だった。いつも感情のファッションに身を固めて、感情のメイクをきめて、感情の音楽を聴いていた。そしてあの頃、なっちゃんの耳にはピアスがめちゃめちゃいっぱい開いていた。なっちゃんはかなり映画が好きで、仲良くなったきっかけも暇なときに一緒に映画に行ったからだった。当時、札幌にはディノスという映画館があった。ディノスは名古屋でいうところの伏見ミリオン座みたいなところで、手作りのポスターがごちゃごちゃ貼ってあって、少しマニアックな映画をいっぱいやっている小さな映画館だった。そこにふたりでよく行った。帰りは大通の喫茶店で感想など話していた。雨の夜に歩いてパフェを食べにいったりもした。いつも、ふたりで四個食べていた。これは別の大きいところだけれど、駅ビルの上にある映画館にもよく行った。日曜の朝だけ五百円で昔の映画を見れる、学生には非常にありがたいサービスをやっていた時期があって、パルプ・フィクションを見たのをおぼえている。パルプ・フィクションは大学の図書館で初めて見たときはそんなにいいと思えなかったのだけれど、朝の映画館で見たときには不思議とすごくいいと思えて、それから大好きな映画になった。

 

 なっちゃんは読書が好きで、東京の高校に通っていたころは、さぼって植物園で本を読んでばかりいたから、あやうく留年しかかったと言っていた気がする。おれはなっちゃんの昔のことをよく知らない。乱暴な男と付き合っていたようで、かなり辛い思いをしたらしく、その頃のことはあまり話さなかった。一度だけ高校の頃の写真を見せてもらったことがあるけれど、金髪で可愛かった。なぜかなっちゃんは大学にはちゃんと毎日通えていたし、日本学生機構から毎月奨学金をもらっていたのだけれど、脱毛か整形かなにかでローンを組んでいて、その支払いにあててしまっていたので生活費は夜職のアルバイトでなんとかしていたようだった。付き合うまでは何をしていたのかよくわからないのだけど、おれが三年目の冬に一時的になっちゃんのアパートに住んでいたときは、すすきのにあった合法カジノというか、ポーカーができる店でディーラーをしていて、そこに金持ちのじいさんがきて、愛人にならないか?と誘われたのを断ったり、いろいろあったらしかった。そのあとなぜか急にカジノを辞めて、二ヶ月くらい大通りのカフェでなぎさちゃんという名前でメイドさんをやっていた。なっちゃんが辞めたあとすぐにカジノは摘発された。換金をしていたのかどうかはわからない。表向きの理由は、深夜営業が風営法に抵触していたということらしかった。おれはカジノのことはよく知らないけれど、雀荘の場合、こっそり深夜営業をしていない店なんて存在しなかったから、そんな理由で摘発されるなんておかしな話だと思った。これは今でも何か裏があったんじゃないかと不思議に思っているのだけれど、まあそんなことはどうでもよかった。

 

 なっちゃんはすぐにメイドの仕事に慣れて、はじめこそ他の可愛いメイドさんと仲良くなれたとか、お客さんに可愛いと言われたと喜んでいたのだけれど、どうやらメイドさんはディーラーよりかなりたいへんだったらしく、結局一ヶ月半くらいで辞めてしまった(そのときの名残で、アパートのおれの部屋にはずっとメイド服が吊るされていた)。そのあとすぐに風俗の面接に行ったら、店長から、あなたはうちの店で働くには細すぎる、という理由で断られて、結局すすきのの雑居ビルにあるピン雀荘で働くことになった。なっちゃんがホールスタッフとして働いている間、おれもその店に毎晩打ちに通って、十一時頃に商店街でラーメンなど食べながら歩いて一緒に帰るということをよくやっていた。なっちゃんは麻雀は素人だったけれどなぜかずっとやりたがっていて、おれが家ですこしルールを教えたりしたこともあり、店長のお金で少しだけ打たせてもらえたりしてお客さんも喜んでいたらしかった。その店には、ぬいぐるみとかお菓子とかをもってきてホールの女の子たちにプレゼントする常連さんが何人かいて、そういうわけで十二条のおれの部屋にはぬいぐるみとチョコレートの箱がたまっていって、その上で花みたいな洗濯物のシャンデリアが揺れていた。ぬいぐるみなど邪魔なだけなのだけれど、まくらの代わりにしたりしているうちにだんだんと愛着が湧いてくるもので、いつのまにかおれがトラのぬいぐるみを密かに可愛がっていると、ある朝ラジオ局の夜勤から帰ってきたらトラ子が失踪していたことがあり、夜のうちになっちゃんが捨ててしまったのだった。おれはものを捨てれない人間だが、なっちゃんはよくものを捨てた。

 

 なっちゃんは、おれがラジオ局の夜勤でいない夜には、おれのパジャマをポムポムプリンのぬいぐるみに着せて話し相手にしていた。だから、夜勤から帰ってきたおれがやることは、まずマクドナルドかコンビニで買ってきた朝食を食べることで、次にポムポムプリンの追い剥ぎだった。逆に、なっちゃんが夜いないことも多かった。カジノやメイドカフェで働いていたときもそうだったし、なっちゃんはおれと違って友達と飲みに行くことも多かった。友達というのは同じ学科のマリツンという親友の女の子か、おれもよく知っているふたりの男友達だった。なっちゃんはそのふたりの男友達とよく飲みに行くのだけれど、おれが女友達と飲みに行くことはぜったいに許されなかった。そんなことをしたら少なくとも一週間は感情だっただろう。しかしさいわいなことに、おれになっちゃん以外の女友達などひとりもいなかった。おれはなっちゃんのいない夜をさみしい夜だと感じたことは一度たりとてなかった。しかし、なっちゃんにとっては、おれがいない夜は無限に続くかとおもわれるほど長い長い夜だったのだ。そしてなっちゃんの想像のなかにだけ生きていた虚像のおれは、なっちゃんと同じように孤独な夜にぽつりぽつりと涙を落としていたのだった。そういうわけで、なっちゃんはいつだったか、バイトの帰りに駅前の百均で光るヨーヨーとシャボン玉セットを買ってきてくれた。それからは、おれはひとりの夜に部屋のなかでシャボン玉をふいていた。しかし、そんなことはどうでもよかった。

 

 なっちゃんの精神は不安定だった。不安定とはどういうことだろうか?大学の講義の演習問題で、安定と不安定を定義する問題があった。カーブの底(つまり谷)に置かれた球は、そこから少しだけ左右に押されたとしても、自然にもとの位置に戻るものだ。これが安定ということだった。反対に、カーブの頂点(つまり山)におかれた球は、ギリギリのバランスで静止していて、ちょっとでも押されると落下してしまって止まらない。これが不安定ということだった。この定義でいうと、なっちゃんの精神はまさに後者の状態にあって、ささいな衝撃ですぐに感情になってしまうので、おれは始終気を配っていなければならなかった。しかしこの表現はほんとうは嘘で、こういうとまるでおれが始終気を配っていたような意味になってしまうかもしれないけれども、じっさいおれは気など配っていなかった。だから、ここでおれが言いたいのは、あくまでおれが、本来気を配らなければならない立場にあったということだけであって、じっさいに気を配っていたかどうかはまったく別の話だということだ。しかし、そんなことはどうでもよかった。なっちゃんは料理の褒め方ひとつ、服の褒め方ひとつ間違っても感情になってしまい、回復までものすごい時間と手間を要するのだけれど(架空の浮気というどうしようもないこともあった)、いちばん理不尽だったのは、十八条のパン屋さんの斜向かいにあったなっちゃんのアパートに住んでいた頃のことだった。その夜、夕食のあとでなっちゃんが、おれがこれまで好きになった女の子はどういう子だったのかすべて知りたい、参考にしたいというので、いろいろ昔の話などしたのだけれど、途中までニコニコしながら聞いていたなっちゃんが、突然「待って」と言って体育座りで顔を伏せたままぼろぼろと涙を流しはじめたのだった。なっちゃんはつらい……つらい……と呟きながら、あやうく嘔吐しかけそうで、かなり危なかったけれど、そのまま冬のベランダに出て行って、ドンキで大量に買った海外のタバコを吸いながら嗚咽を沈めていた。そのときはおれは悪くなかったと今でも信じているけれど(少し楽しそうに話しすぎたのではないか?という反省はある)、その後はいろいろとおれのやらかしでなっちゃんを泣かせてしまったときがあり、そのたびになっちゃんは感情になってしまった。なっちゃんがメイドをやっていた頃、同期の女の子で金髪ショートヘアのお人形さんのように可愛い女の子がいると毎日うれしそうに話していた。おれはそんなに可愛いというのなら会ってみたいと言ったのだけれど、なっちゃんは、だめ、会ったら絶対好きになるから、といって意地でも止めてきて、だったら話すなよと思ったのだけれど、結局先輩と友達を誘ってなっちゃんの元職場に遊び行ったということがあり、帰ってくるとなっちゃんが感情になっていたことがあった。

 

 おれはなっちゃんの実家にも泊まったことがあった。なっちゃんの実家は東京で、二泊三日の予定で泊めてもらうことになった。ちょうどラジオ局の夜勤の給料日のあとになるし、その間に横浜とか行っていろいろ遊ぼうということになっていた。夏休みだったので、おれはじぶんの実家に一週間くらいいて、それから東京に行ってなっちゃんの家に泊めてもらったのだけれど、実家にいる間に近所の初めて行く雀荘に打っていたら、ときどきレートが高い卓が立つということをマスターが教えてくれて、打たせてくれと頼んだら、平日の昼間なのに電話一本で怪しい客が三人くらい集まって、その月の給料がぜんぶ失くなるということがあった。そんなわけで東京についたときのおれの財布はカラだったのだけれど、なっちゃんがこっそり一万円を貸してくれた。結局その一万円は手をつけずに返したのだけれど、そのときもなっちゃんはあやうく感情になりかけていた。これはめずらしく10対0でおれが悪かったケースだった。電車で横浜にいった。雨が降っていた。おれは山下公園の花壇で傘をさしているなっちゃんの写真を撮った。これがおれの持っているほとんど唯一のなっちゃんの写真だ。夕方、なっちゃんは焼肉をご馳走してくれた。その日はおれの誕生日だった。雨はまだ降っていて、ふたりで観覧車に乗った。なっちゃんは雨が似合う女の子だった。札幌でも、いつも雨の夜を歩いていた。

 

 おれはなっちゃんの家を出たあと高校のときの友人の小田島の家に泊めてもらい、飯を食わせてもらった。小田島は競馬が好きだったので、一緒に府中の競馬場に行って、口座に残っていた三百円で三連単を買ったのだけれど当然外れて0円になった。そのあとどうやって札幌に帰ったのかはなぜかまったく記憶にない。おそらくなっちゃんがカードで飛行機を取ってくれたのだと思うのだけれど、そのあとお金を払った記憶もない。なっちゃんの家ではおれは見た目のわりにテーブルマナーがいいというのでお母さんにひどく気に入られた。お父さんは別に気に入ったようでもなかったけれど、特に意地悪するでもなく、むしろいろいろよくしてくれた。なっちゃんのお父さんはインテリなので、朝おれが起きて台所に行くと、清潔な白いシャツを着て、コーヒー片手にフランス語のテキストを開きながらラジオを聞いていた。なっちゃんにはお医者さんのお姉さんがいて、お姉さんには佐藤くんという彼氏がいて、佐藤くんもお医者さんだった。おれ、なっちゃん、お姉さん、佐藤くんで食事に行ったこともあるし、おれ、なっちゃん、お姉さん、お母さんで食事に行ったこともある。おれはいつもご馳走してもらった。佐藤くんはお父さんに会ったことがあるのだろうか?おれはなっちゃんとお母さんが喧嘩しているところを直には見たことがないのだけれど、なっちゃんは高校のときからやさぐれていたから今でも仲は良くないらしかった。なっちゃんは、よく、親とは離れて暮らしているおかげでかろうじてもっている、というようなことを言っていた。そういう話を前もって聞いていたから、なっちゃんの実家に行くまでおれはかなり緊張していたのだけれど、じっさいはお母さんもお父さんもよくしてくれたし、お父さんのスリムで上品なことにはほんとうに驚いた。

 

 なっちゃんはおれにいろいろなものをくれた。誕生日とかクリスマスとかの度におしゃれな服とか靴を買ってくれた。おれはじぶんで服を買うのが苦手だったので、いつも同じパーカーとジーンズで歩いていたのだけれど、なっちゃんはそんな男を連れて歩きたくはなかったらしかった。おれは年中ギャンブルに負けていてお金がなかったので、お返しとして服や靴を買ってあげることはなかなかできず、なっちゃんの誕生日や記念日をどうやって凌ぐかはいつも悩みの種だった。たしか最初のクリスマスは、まったく知らないサラリーマンの人からもらった三千円の商品券を使って大丸百貨店で買ったリップだった。どうしてサラリーマンが商品券をくれたのかというと、彼は泥酔してタクシーに乗ったときに財布を忘れてしまって、翌朝、徹夜麻雀の帰りにおれが藤女子大の横の通りでカラになったその財布を拾って目の前の札幌東警察署に届けたからだった。クリスマスの夜、大通り公園のビルの上にある観覧車に乗った。雪が降っていたかどうかはおぼえていない。この夜もやっぱり雨が降っていたのかもしれない。しかしふたりとも確かに傘をもってはいなかったし、もっていたとしたらどこかに忘れてしまったことになる。傘はなかった。それだけが確かなことだった。あるいはオリオン座がみえたのかもしれないけれど、忘れてしまった。もしかしたら、雪も雨も降っていなかったのかもしれない。あるいは街が明るかったから、空などみていなかったのかもしれない。アパートの部屋に帰ると、おれはなっちゃんにリップをプレゼントした。

 

 いつだったか、なっちゃんはアルコールにつけておいたニードルで、おれの耳に穴をふたつ開けて、ステンレスのピアスをつけてくれた。おれはピアスが重いということをはじめて知った。夏の終わりには江ノ島の海岸を歩いた。おれとなっちゃんは、あまり言葉を交わさなかった。おれの耳にピアスを通しながら、なっちゃんは泣いていたような気がする。涙がにじんだのをみた気がするからだ。しかしそれはいつかの涙だったのかもしれない。あるいは窓をつたう雨粒だったのかもしれない。あまり思い出せない。笑っていたような気もする。なっちゃんは記憶のなかではいつも泣いている。思い出そうとすると、よくわからなくなる。なっちゃんはおれといて幸せだったのだろうか?

 

 それからも、誕生日や記念日は何回か来たけれども、おれは雀荘の知り合いから借りたお金で買った指輪とか、不動産のキャッチをやってもらったお給料で買った服とか、それなりに立派なものをプレゼントできたこともあった。しかし、ほんとうにお金がなかったときは、短歌を書いた紙一枚を渡すという平安貴族みたいなこともやっていた。なっちゃんは料理も上手だったので、料理がまったくできなくてお金がないくせに年中外食していたおれに、いつか私が出て行ったときのために、と言って、おれがおいしいと言ったものの作り方が書かれたレシピノートを作ってくれた。

 

 おれとなっちゃんはおそろしく趣味があった。なっちゃんの勧める映画や本や音楽はどれもすばらしかったし、太った猫やハスキー犬が好きだということも共通していた。なっちゃんはおれのまねをして短歌をはじめて、ふたりで同じ新聞に投稿したらおれは一回しか載らなくて、なっちゃんは何回も掲載されていた。おれの発言がそのまま短歌になって新聞に載ったこともあり、へんな気持ちになったのをおぼえている。食べ物の好みもあっていたし、生活に支障をきたすような好みのすれ違いはほとんどなかった。唯一の困難は入浴で、おれは基本的にお風呂に入らなかったから、なっちゃんがむりやり入浴させていた。ひどかったときはほんとうに五日間一度もお風呂に入らず(もちろん大学にもバイトにも行かず)、ベッドのすみでじっと苔をはやしていたことがあったけれども、このときはなっちゃんが浮浪者の臭いがすると言って責め立て、狭い浴室に追いやり、お湯につからせ、湯気に蒸されて死にそうだというおれにジョッキで水を与えたりして、最終的には石鹸の匂いになったおれがたたまれた洗濯物と色とりどりのぬいぐるみのなかに転がされていた。

 

 いま考えても、おれはある時期からなっちゃんと生活することを苦痛だと思っていた。それは間違いない。なっちゃんが嫌いになったわけではなかった。なっちゃんといるのは楽しかったけれど、おれはいつも忙しく、充実していて、毎日が楽しいという状態があまり好きではないのかもしれないということに、ゆっくり時間をかけて気づいていったというだけのことだった。春、なっちゃんは髪を黒く染めて、海上自衛隊に入るために呉に引っ越していった。なっちゃんが出ていくとき、おれはとんでもなく嬉しかったのをおぼえている。嬉しさが顔に横溢していた。おれは、あくまでなっちゃんがいなくなることが嬉しいのではなく、なっちゃんが無事卒業し(おれと違って)、まともな職を得て社会に出てゆけることがうれしいのだというスタンスを崩さないようにした。たしか、それからすぐ電話をして別れたのだと思う。それからの一年間、おれは十二条のアパートで、なっちゃんの不在と暮らした。正式に別れたのは、春から初夏のどこかだったと思う。なぜ曖昧なのかというと、夏には呉に泊まりに行ったし、それからも三回くらい会っているから、いつ別れたのかあんまりおぼえていないのだ。

 

 なっちゃんと別れた理由はいくつかあったはずだけれど、もっとも決定的だったのはおれに結婚の意思がなかったことだった。なっちゃんは親と仲が悪かったので、いつかほんとうに仲がいい家族をもつという夢をもっていた。しかしおれは絶対に誰とも結婚しないと決めていたので、何度も結婚しようと言われてそのたびなっちゃんは感情になってしまっていたのだけれど、おれはついにイエスとは言わなかった。言えなかったのだ。なっちゃんは、結婚したいいちばんの理由は、私が死んだときに最初に知ってほしいし、おれが死んだときは最初に知る人でありたいからだということをよく言っていて、なぜかふたりとも死ぬ前提だった。おれがなっちゃんのような相手を見つけることはこの先ないだろう。それほどの人でも結婚できるとは思えなかったのだ。おれはひとりで暮らしたかったのだった。ひとりで暮らしたい。もう、これは説明できるものではなく、そういう生きものなのだから仕方がないことなのだ。結局、なっちゃんはおれといっさいの連絡を絶つことを決意した。なっちゃんは結婚したいのだから、もういい年だし、あたらしい相手を見つけなければならなかった。最後になっちゃんと会ったのは横浜中華街で、無作為に選んだ店で四川料理のコースを食べた。帰り際、支払いを賭けてジャンケンをした。おれが負けて、差分を奢ることになって、なっちゃんは笑っていた。

 

 なっちゃんと別れた年の夏、おれは呉のアパートに泊めてもらった。明け方、おれはひとりだけ布団から抜け出して、アパートの裏の階段から海に降りていった。アパートの裏の階段には、前の夜、ふたりで花火をした煤のあとが残っていた。おれは去年、なっちゃん江ノ島に行ったことを思い出した。あのときも、電車の窓の向こうで雨が降っていた。水族館に行ったのだ。植物園にいったこともある。そのときもやはり雨が降った。薄緑色の夕立だった。桜を見にいったときは降っていなかっただろうか?そんな気もするけれど、おれは思い出すことができない。冬の京都に行ったときも雨が降っていた。笑いながら古書店にかけこんだ。喫茶店だったかもしれない。午後の喫茶店の、ステンドグラスをおぼえている。異国の彫刻をおぼえている。しかし、あれは京都だっただろうか?おれは煮詰めた林檎のショートケーキをおぼえている。しかしそれは横浜だったかもしれない。札幌の、毎夜歩いた通りの裏にあった店だったかもしれない。夜勤明けに見た夢だったのかもしれない。ケーキにビスケットはのっていただろうか?蝋燭がなかったことだけは確かだった。蝋燭はない。では、記憶のなかには、どうして夜のケーキの色彩が残っているのか?クリスマスではなく、誕生日だったのかもしれない。そういえば、なっちゃんと一緒にいて、おれは涙をながしたことはない。それは確かだ。しかし、それらはすべて、どうでもいいことだった。

 

 なっちゃんはそのとき眠っていたのだから、おれが海をみていたことは知らない。

 

 

 

退職

退職することになった。21年の四月からなので三年弱勤めたことになる。当たり前だが3年間毎日会社に通った。これはかなりすごいことで、大学一年目は2日しか行っておらず成績が2217人中2211番だったし(下の6人がやばすぎる)、大学三年目は公園で小学生と野球をしていたら、日ハムの選手のガチ息子がいて、小3のくせに90キロくらいのストレートを投げていたが大人の膂力で粉砕し、キャッチボールをしたら硬球がトンネル効果のせいでどう考えても絶対にすり抜けるはずのない金網をすり抜けて違法駐車していた営業車を凹まし、「脱獄に応用できるんじゃないか...?」などと思っていたら近くでのんきにタバコ吸っていた運転手が真っ青になって駆け寄ってきて、「それ(硬球)、子供の頭にあたったら、事だよ!?」と言われ、でもあいつの親父プロだしな...と反論するわけにもいかず、一緒にいた同級生は泣きそうな顔で平謝りしていたが、おれは高校の合格発表の当日に親父がコンビニで隣の車にカーブミラーめり込ませたときに絶対に謝らなかったので、掲示板みて胴上げされたあとに「なんで謝らなかった?」と中国人バイトを怒る感じで質問をしたら、「ああいうときに謝ると......不利になる」とトリビアのナレーションされて納得した経験から、やはり真っ青な営業マンの前でもカップ麺のふたの店主くらい腕を組んでいたが、去り際に「お金の請求いくかもしれないから、親御さんに連絡だけしとけよ」と言われ、親御さんに電話したらちょうど実家の巨大な犬が何の罪もない女子大生に噛みついて危うく保健所送りになりかけたため、他人に損害を与えたときにマックス1億出る保険に入ったばかりだから何も心配しなくてもいい、と言われてそれから1週間くらい芝生で仰向けになって雲を見ながら1億の使い道を考えていたけど、結局電話はこなくて舌打ちしたくらい大学に縁がなかったのによく毎日会社には通ったもんだと思う。職場ではおれが退職することは課長しか知らず、しかし課長がこっそりリーダーに話してくれて、リーダーはこっそりボスに話してくれて、それは助かったのだが、おれはおれで後輩にだけこっそり話しており、全員がすべてを把握しているのにお互い何も知らない体で後輩だけがいつおっぱじまるのかと常にハラハラしている謎のライアーゲーム2日だけあったが、さすがに今日面談があり、恩を仇で返してすみませんといって、ボスにはぶん殴られる覚悟をしていたが、ボスは卓球部の体格なのでおれとは身長も体重も違いすぎることもありそれはなく、やはりみんな大人でわりと粛々と事はすすんで今では落ち着いている。職場の他の人はまだ何も知らない。ちょうどパソコンの交替のタイミングがきており、おれのパソコンは職場でいちばん古いのだが、どうせ辞めるので交替の提案を無視し続けていたら、担当のKさんというおばさん(というと失礼だが)が「パソコンいらないんですか?絶対に変えたほうがいいですよ?」と直談判に来たので、「コイツに愛着が湧いてしまって...」と愛車が感情を持ってしまった人の演技をし、そういうおれのパソコンは熱暴走でファンの部分が溶けた接着剤かなにかでベトベトになっており、席替えのときにどうしてもデスクにこびりついた黒いカスがとれず、後からその席にきた人が首をかしげながらランチョンマットみたいなやつを敷かざるをえなかったくらいベトベトなパソコンに愛着を持っている狂人だと思われるはめになったが、この誤解は近日中に解けるはずである。あと、退職届を出した次の日(昨日)に急に会社の制度が変わり(なんで?)、一年間休職してから退職か復職を選べるようになったので、急遽休職に変更する可能性が出てきたが、東京に引っ越すし、100%辞めることになるので1年間保険料払ってもらうのもなんだか申し訳なく、何より送別会をやってくれるとリーダーがいってくれていて、どうせまたいつもの松阪牛の店なので、辞めるのか戻ってくるのか50:50なやつにみんなで松阪牛を食わせて花束渡す会にどんな顔して出ればいいんだよとは思うが、会社の制度もリストラの一環で、ようは遠回しに辞めたいやつは辞めてくれってことなので遠慮せずに使えるもんは使っていこうと思い、希望は出した。もし1年後に食いっぱぐれてこっちに戻ってくることになったら、復帰初日に全員に松阪牛を一切れずつと花びらを一枚ずつ返却して「その節は...」と頭下げる挨拶回りを絶対にやろうと思う。けど、食いっぱぐれたら新宿の中華屋で厨房やると思うので、やはり絶対に戻ることはないんだろうなとも思うけれども

ソナチネ

おれの母は昔ラルフローレンで働いていて、上品な着こなしのセンスに絶対の自信を持っている。その信条のもとに幼いおれや妹に立派な服を着せてファッションセンスを養おうとしたのだが、おれは生来中性的な服が好きで、ラルフローレンのポロなどアイビーリーグフットボール選手的な男らしく爽やかな服が正直まったく好きではなく、かなり嫌々着ていた。中学は運動部五分刈り強制で部活の帰りにiPodで狂ったようにビートルズ聴いてたこともあり、無事、反動で髪が肩まである成人男性になったが、服はやはり与えられるばかりで24歳の時までUNIQLO以外の服屋さんに自分で行ったことがほぼなく、ボロボロのジーンズとパーカーでそれでも悲しく夜中の大学通りを徘徊していたら、おれを連れて歩きたくない精神を病んだ元カノがおしゃれなパーカーだのおさがりのTシャツだのDr.Martinのブーツだのジャケットだのをひっきりなしに贈ってくれたもんだから、年中ギャンブルに負け通しで金がなかったおれはお返しとして徹夜セット明けに路上で拾った空の財布を届けたお礼に気の毒なサラリーマンからもらった商品券を使って大丸百貨店で買ったリップとか、セットメンツから借りた金で買ったジャスティンデイビスの指輪とか、それもできないときはやむを得ず短歌を印刷して渡すという平安貴族みたいなこともやっていた。そうして貰った服と別れたときに引き受けたおさがりの服で4年くらい暮らしてきたが、それらもとうとう寿命を迎えたので最近は大須のお気に入りのセレクトショップに通って服を集めていたのだが、一昨日から四連休なので関東に旅行に着たついでに一回行ってみたかった原宿のMilkに行ってカットソーを3着買い、夜は江ノ島で海を見ながらビールを飲んでいた。今日は昼から新宿で小田島と会い、適当な店で適当なタコスを食ったあと、紀伊國屋で文庫を色々と眺め、マルイのMilkにも行ってみた。新宿に来るのは人生で4回目で、1回目は大学一年生のとき、香川の拳法部の合宿の帰りに深夜バスの中継地として寄って、ポイントという今はないピン東の店で東風戦1回だけ打って退散した。その時は持ち金13000円、初めてのピン東、東3局でチートイ赤赤金ドラドラのリーチを打ち、比喩ではなく初めて指先が痺れた。博打でリアルに指先が痺れたのは後にも先にもこの時と、札幌のマーチャオの開店を冷やかしに行ったときにツモスーリーチを打った時の2回だけである。結局そのチートイは流れ、東4局の14巡目くらいまでダンラスで1pアンコのリーのみ5枚見え5-8pを赤ツモれとやけくそで曲げたら、8pのほうを一発でツモって柔らかく引きヅモしながら「3000...」と思って裏を見たら9pが眠っていて、3000-60004枚で2着の+8000円まで突き抜けて逃げるように店を後にした。その前日道後温泉でホテル清掃係にスマホの充電器を捨てられた悲劇があったので目の前のヨドバシで買い直して夜行バスで秋田に帰った。その年に大学に行ったのは2回、取得単位は0だった。次に歌舞伎町に行ったのは麻雀甲子園の決勝の翌日で、前日ホテルで一緒のチームで同じ店のメンバーでもあった村上・ワタとストップウォッチ源さんというゲームをやっており(もう一人のチームメイトのにいやんは札幌から遠隔で参加)、これはP大工の源さんをアナログで楽しむために、ストップウォッチのラップ機能を使ってボタンを押下していって、下1桁に奇数が出ると500円オール、奇数2桁揃うと1500円オール、偶数が4回続くと終わりというルールで一周して差額を清算するという地上で最も頭の悪いゲームであったが、結果はワタが+8万、村上が▲2万でおれが▲6万だった。当時のおれは本物の源さんで計50000発出していたこともあり、潜水士になるべく旅立った渡辺の親友の本間の送別会で優勝して5万総取りしていたこともあり、種銭には無限に余裕があったので快く払おうとしたのだが、いざ札束を目の前にしてワタが、「麻雀でならともかく、こんなくだらないゲームで6万は受け取れねえ」と意味不明な気狂いを言い出し、麻雀だって似たようなもんだろと心の叫びを上げながら、どんなに交友関係がぐちゃぐちゃでも、4年以上の付き合いで一度も酒を飲みに行ったことすらなくても、ギャンブルの清算だけは一度も裏切ったことのないことを唯一の確かな誇りとしていた間柄もあって、おれは無理にでも押し付けようとしたがついに拒絶された。2万を取られた村上が仲裁に入り、ワタと2人で話し合った結果、「くじ、お前の負けはとりあえず3万だけ受け取る。お前は、明日歌舞伎町のさくらに打ちに行け。そして初見さま24時間場代無料サービスを使って、帰りの飛行機まで打って可能な限り浮かせろ。それがいくらであろうと、プラス収支である限りワタに回すのだ。」という謎すぎる判決を下され、翌日おれはさくらに打ちに行って18000浮いたということがあった。こいつらは2人とも後輩だった、たぶん学年は上だが(よく知らない)。3回目の歌舞伎町は今日思い出したのがもう忘れた。そのうちまた思い出すこともあるだろうか? ところで小田島は高校からの親友で2年ぶりに会ったが元気そうで、前回は春に横浜で新入社員研修を受けていた時に夜飲みに出たがどこの店もやっていなくて、コンビニでビールとおつまみを買って多摩川沿いの公園で夜桜を見ながら飲んでいたことなど思い出した。彼はおれの知り合いのなかで技術的なことを含めればおそらく一番映画に詳しく、映画学校も卒業しているが、おれはそこまででもないので好きな映画は一番がアマデウス、二番がパルプ・フィクションで三番がソナチネかセッションという話などなんとか頑張ってした。小田島はたけしの映画は3-4x10月しか見たことがないと言っていてそんなことある?となった。小田島はUNIQLOしか着ないが色を間違えないというファッションの基本理論を抑えており、背が高く痩身なのでなんでも似合う。Milkでモデルしか着こなせない色々な変わった服を当ててみてもさまになっていて面白かった。夕方に池袋に行って、トリトンで田口さん・和田さんと待ち合わせ。二人とも高校の生徒会の一個上の先輩で、大学もおれと同じ。勝手に小田島を連れていった。トリトン17:30時点で55組待ちで、赤ちゃんがいるため20:00には帰りの電車に乗らなければならない田口さんは絶望していたが、おれが55組は光星(札幌でおれがLemon聴きながら通った店)なら1時間で捌ける、ここの店舗のキャパは札幌の2/3くらいだから、19:00には食えるだろうとトリトン光星店で5年で120万使ったプロ棋士の読みを披露し、アマたちは誰も信じなかったが実際19:00に席に案内されて度肝を抜いた。それまで水族館で泳いでいる魚を見ながら何を食うか品定めしながら暇を潰すか、となり一時はサンシャイン池袋に向かったものの、サンシャインに着いた時点で55→28組待ちになっており、数学的判断でそのまま折り返したし、水族館は猛毒展をやっていたので逆によかったのかもしれない。小田島は歩くミイラなので汗をかかないが、先輩2人は汗だくになっていて特にこの炎天下の中1日歩いていた和田さんは悪臭を放っていたので薬局で無香料のボディシートを購入して配布したらいくらかましになってほっとした。田口さんは意地悪そうな顔をしている人で実際意地悪だが、大学のときにおれが彼女と花まるに一緒に行く約束をしていて大切に取っておいた仕送りの一万円をさかえルールセットで赤5pの海に溶かしてしまい途方にくれて札駅から12条までの道をとぼとぼ歩いていた時に市役所勤めの帰りの田口さんにばったり出くわし、事情を説明したらホイと一万円をくれて、これで食いなよと笑いながら手を振って去っていったことがあり、こうして痺れるほどかっこいいところがときどきある。実際女にも鬼のように好かれる。対して和田さんは根は真面目だがケチンボで、大学にいた時など6年間で一度も奢ってもらってないし、毎回会食の会計の時には田口さんなどは割り勘だよねといいつつラフに多めの札を出してくれるのに対し、和田さんは全力でスマホの電卓を叩いて小銭入れに指マンしているのだが、実は片親育ちで、叔父さんに学費を出してもらっていたため絶対に留年はできないと人一倍真面目に学業に取り組んでいて実際結果も出していた人で、そのためにバイトも一切しておらず、自分で稼いだのでないお金で後輩に奢るというのも違うよなとおれは思うので、彼は結局モテないながらも正しい生き方をして報われている。とうとう席に案内された。池袋のトリトンはすべてのネタが札幌の1.6-1.8倍の値段がしていてメニューの数も質も正直数段落ちるが、なかなか札幌に行けない我々にとっては懐かしの味なのである。実は和田さんは先週部活の仲間と札幌に旅行しており、途中でおれと田口さんにおすすめのラーメンとスープカレーを教えてくれと3人のグループLINEで連絡してきた。田口さんは彩味・すみれ、おれはSAMAを勧めたのだが、LINEに何の音沙汰もないため帰ってきてから田口さんが結局ラーメンとカレーは行ったのかねと尋ねると色々あって行ってないという。我々はなんじゃそりゃ、そんなら聞くなよアホと拍子抜けしたのだが、和田さんは今日おれが突然小田島を連れてきたのを見ると申し訳なさそうに、1人に1個ずつ札幌農学校のクッキー配ったあと、小田島いるとは思わなくて...ごめんと謝りながら田口さんに彩味とすみれのラーメンのパック、俺にはSAMAスープカレーセットをくれた。こないだの質問は自分が行くためではなく、我々が喜ぶおみやげを買ってきたかったという一心でしたのであって、この人は本当に蛍光色の服がダサいと思うときもあるが、アンタかっこいいよと思ってしまった。そんなこんなで駅で別れ、小田島には2年後にまた会いましょうと言った。