明るすぎる海

これらの文章はすべてフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

 

 

 すべての記憶のなかの窓。眠っている窓、眠れない窓、暗い窓。あたたかい光のあふれる窓、月光に濡れた窓。死んだような青い影の窓。


 大晦日の夜。居間のガラス窓の外に、大人ほどの背丈の、髪の長い鬼がぽつねんと立っているのを、幼いおれは見た。朝になってから庭に出てみると、窓はトタン板で覆われていた。屋根からおちてきた雪が庭に降り積もり、窓を割ってしまうからだ。鬼の話をすると、父と母と妹は笑った。祖母は笑わなかった。ただ、それは鬼ではなくて、大人になったおまえだろう、といった。


 かなしい窓、猫のいる窓、花の揺れている窓。空虚な窓、物でうまっている窓、網戸のある窓。四角い窓、まるい窓、かつて存在していたけれどもいまはもうどこにもない窓。隙間から煙が流れている窓。奇跡を映し出す額縁のような窓。終電の窓、無人の水族館の窓。


 冬の窓。農作業のためのあらゆる道具を積み込んだ、土のにおいのする自動車の車窓。スーパーマーケットの駐車場で、まっしろな窓を黒板にして、祖父は平仮名の書き方をおしえてくれた。おれは見よう見まねではじめてのひらがなを書いた。

 の

 指先が濡れた。徐々に消えてゆくその曲線は、文字だとは思えなかった。反時計回りに旋回する、魚の影にしか見えなかったのだ。


 泥棒が忍び込む窓。エメラルドのような淡が吐き出される窓。夢のなかの窓、試験場の静かな窓。生活を映し出す窓。鉄格子がついた独房の窓。宙づりの男が熱心に拭く高層ビルの窓。奇妙な表情が並んだ喫茶店の窓。しきりに開閉される窓、永遠に開かない窓。映画館の窓、スクリーンと呼ばれている窓。電子レンジの窓、人形の家の窓、そろばん塾の窓、補聴器屋の窓。


 駅のホーム。少年が、隣の少年のチャックの隙間に細い指をそっとさしこむ。無数の人間たちによる、思想上の巨大な無形構築物、の窓。ズボンにぽっかりと空いたあの穴が、そんな大仰な名前で呼ばれていることの意味を、おれは、そのときはじめて理解したのかもしれない。少年の折れそうなほど細い指が、彼の愛してやまない白い手のひらから、やわらかく拒絶されたのをまのあたりにしたときに。


 夜明け前の窓。エンゼル・フィッシュが泳ぐ窓。夏の教室の窓。アゲハチョウがぶつかって砕けた窓。ミサを終えた教会の窓。海の見える窓、庭の柿の木が見える窓。楽器と少女を永遠に隔てる窓。

 かつて粉々になった朝の宝石のような窓。

 移りゆく季節をめまぐるしく乱反射する窓。

 いつかあなたの額の微熱をやわらげたつめたい窓。

 

 

フラン

 だから、フランて名づけたのは僕だ。って、なんべんいって聞かせても母は、はいはいと相づちをうって流すんです。まったく、頭にくる。母はいう。「フランはさいしょは、北海道から来た猫だってきいてたもんだから、それなら富良野をもじってフランがいい。フランて名まえにしましょうね」そうやって母と、ばあさんで名づけたと。でもこれほんとうじゃない。僕はちゃんとおぼえてるんです。フランにさいしょにふれたときに、毛がふわふわしているからフランだ! って僕が名づけた。僕が、名前をつけたんだ。そしたら母が、「ええ、フラノだったら北海道でしょ。この子は青森なんだから」それがいつのまにか、順序がさかさまにされて、北海道だからフラン、そういうことにされちゃった。僕は母を許しやしません
 そんでもフランは賢(さか)しい猫でした。ひとの言葉がわかる。掃除機がこわいものでないとわかる。あげくに、いやがるのをむりに抱(しま)いたりすると、たとえばそれが妹なら、妹の服のたたんであるのにわざとしょんべをひっかけて仕返しする。こんな賢しい猫がいるものかと、みんなおどろいた。だから、僕はいまでもきっと信じてる、母がなんといおうと、フランは名づけ親が僕だって、ちゃんと知ってんだ。フランが知ってくれてるなら、僕はそれでいい。それで満足だ
 もともとフランは、知り合いの、犬をいっぱい飼ってる美容師のミカさんのとこに行くはずだった。母と父とが、よし猫を飼おうってんで、わざわざ山形まで車でむかえにいった。電話では、かわいい三毛(さんけ)の女の子がいますよ、というので、その子をとっておいてもらって。すると追って、白くてふわふわな、きれいなスコの男の子が来ました。どっちにしましょうかと。その話をたまたま店で聞いてたミカさんが、よければ男の子のほうをつれてきてくれないか。アタシがほしいよ。そんな話になりまして、車に猫いれる籠をふたつ、母と父とで積んでった。女の子のほうはうちの子だから、助手席の母のひざのうえで、よしよしと話しかけながらだいじにだいじに。男の子のほうはどうせよその子だからと、籠は後部座席に積んだまま、長い道のりをにゃんにゃと泣きながら揺られてきた。いまでも母はあの帰り途のフランの泣き声、わすれられないという。ところが家にもどってくると、ばあさんがフランに一眼惚れ。ミカさんの約束、あえなく反故にされ、フランはその夜からうちの子になった。そのせいかどうか知らぬけども、フランは母と父にはとうとう懐きませんでした
 まっしろで、羽毛のかたまりのようなフラン。僕はフランを、夏休みの宿題で絵に描いた。白い絵の具で塗っていたら、母がそれではいけないという。だってフランは白いんだもの。いいえ、よくみて描きなさい。ところどころ茶色かったり、ベージュにみえるところがあるでしょう。たしかにそうでした。けれどもフランはやっぱり白くて、ポッツリとピンクの鼻がさんかくにのっかっているほかは、雪景色のようなので。クリスマスにはサンタクロースのぼうしをかぶせてみたら、とってもよく似合った。お正月にはみかんをのせた。鏡もち。みんなでキャッキャとはしゃいで何枚も写真をとって。とうのフランはずっとムスッとして、不機嫌そうなのがおもしろおかしい
 さてうちの子になった三毛の女の子はちぇっちゃんといった。山形から来たからチェリー、これは嘘でなく母がつけた名まえ。ちぇっちゃんはすばらしい美人で、フランとは夫婦になったけれども、美男美女でふたりとも品があって、格があって、まさにゲルマント公爵夫妻みたいな猫の貴族でした。ただ、ちぇっちゃんもすばらしく賢しかったけれども、フランはもっともっと賢しくて、ほとんど人とかわりなかった。そのかわり、ちぇっちゃんは運動神経もばつぐんに良いのに、フランはどんくさくて、駆ければおそい、跳べばすっころぶ。そんなんだから嫁の尻に敷かれてる感じで。フランはプライドが高いから、ばあさん以外の人が気軽にふれようとするとシャッと威嚇して退ける。でもちぇっちゃんには弱くって、おそるおそるちぇっちゃんに鼻をちかづけて好意をしめそうと必死なんだけども、鬼嫁のほうはうつくしいお顔をだんだんに険しくゆがめていって、いらいらが頂点に達すると無言で肉球が空を飛び、だんなのピンクの鼻先をぱしり、とらえる。しかしね、なんべん、ぶ殴られようとも、あそぼうよ……とおそるおそるちかづいてゆくフランは、滑稽で、かわいげがあるもの
 ちぇっちゃんは、みんなと暮らしてた。じゃあフランはというと、ばあさんのうちに暮らしてたんです。そうして、毎朝、じいさんの運転する軽トラにのって通っていた。毛布をしきつめたピンクの籠にちょこんと身体をまるめて、ばあさんのひざにのって車に。赤ちゃんのころからずっとそうやって出勤する猫だったから、フランは車がすきだった。ちぇっちゃんは家暮らしだったから、たまさか動物病院にいったり、盆や正月にばあさんの家にみんなでいくときなど、ほとんどむりくりキャリーにつめこんで、やっぱりにゃんにゃと悲鳴をあげるのを可哀想にと車にのせていたものを。かたやフラン、出勤退勤の時間がくると、みずから籠にのりこんで、泰然自若、余裕のツラがまえ、なんとも堂にいっている。病院にも、いやそうな顔しつつも、人間のように黙って出かけてゆく。こんな猫っているんだろか
 ばあさんが一階のお店ではたらいてる昼間のあいだのこと。フランは物置棚の奥、直角しておかれた、たんすの影になった暗がりにフランの布団があって、そこに、こもって、らんらんとみどり色の眼を輝かせていた。自分の家はばあさんの家であって、ここではないと思ってるのだ、だから警戒心がつよくてめったに出てこない。昼飯どきになって、店からみんながガヤガヤ二階にあがってきて、親子丼を食いながらのど自慢をみている頃になると、ようやくそろそろと闇から出てきて、ちぇっちゃんと二人でお皿に並んでカリカリやりはじめる。フランは右奥歯が痛いらしくて、いつも左の頬を下に傾けてカリカリと噛んでいる。いちどにあまり量もたべない。だから油断すると嫁にぜんぶ食われることも、ありました
 調べると、スコティッシュという猫は、もともと関節があまり頑丈でないらしい。だからフランも、ああしてしょっちゅうずっこけたり、跳ぶのにしっぱいばかりしてるのだ。老いてからは、なおのこと。フランはあまり動きまわらなくなりました。出勤の間隔もだんだんあいてきて、たまに店に顔を出せば、店ではたらいているお姉さんたちが、フランくん! ひさしぶり! といって喜ぶ。ばあさんによると、フランは出勤のきぶんでない日は、朝から窓際のクッションに横になってしまって、フラン。と呼んでもピンクの籠には入ろうとしない。それでご飯だけおいてくると。賢いから、ご飯は日に何度かにわけて食べる。そのご飯もだんだんと食べ残しが多くなる。ちぇっちゃんや、娘のファニジに会えなくてさみしくはないのだろうか。と僕や母なんかは話していたもんですが、動く体力も、すきだった車にのる気力もなくなりつつあって、日がな窓際のクッションから、ながれてゆく雲や、庭の紫陽花や、つどってくる小鳥、かすんだ夜行性の視界にながめるフランの昼は、じっさいどんな感情だったのか、僕たちには知るよしもありません。そうして、フランは静かな冬の朝に亡くなりました。その五年後には、ちぇっちゃんが
 フランが死んでしまってから、ばあさんみるみる元気がなくなった。僕ももうはたらきに出ていましたから、会うのは盆と正月くらい。そのたびごとに十ずつ歳をとってゆくようで。もともとちいさかったばあさんが、さらにかぎりなく縮んでゆくようで。フランはほんとうに心の支えだったのでしょう、母は保護猫をもらってきて、ばあさんのとこに連れてってあげた。ひげ猫だったので、名まえはダリ。今度は妹がつけました。ダリと暮らすようになって、ばあさんはまた少し元気をとりもどした。それでも、少しボケてきたせいで、ダリのことを呼ぶときに、かならず「あやフラン、でねくてダリ!」といい直して、しわくちゃな顔で笑うのです。もう二階にあがるのもしんどいから、座敷におろしてきたベッドの枕元には、いつまでたってもサンタクロースのぼうしをかぶったフランの写真が立てられていた
 これは四年前のこと。ばあさんが、雪よせしてたら、屋根からおちてきた雪の下敷きになって、腰の骨を折った。そんな連絡が、夜、母からきた。もし来れるなら来てほしい。ぼくはすぐに上司に電話、仕事の休みをもらって、その夜のうちに三重から名古屋、名古屋から飛行機にとびのった。けれどもこまった。電車が大雪で遅延、地元の駅から出る最後のバスがなくなった。父も母もそばを離れられないから、タクシーをひろってくれと。でもこんな田舎で、真夜中にタクシーもありません。とほうにくれた。ごうごうと雪のふるまっくら闇に立ち尽くしていると、車輪が雪を踏み砕く、ぎしぎしって音がして、ヘッドライトの一条が、僕のつま先でさっと、闇を斬り落とした。
 運転席の窓がすーっとひらいて、まるまるとふとった、白髪にゆたかな白髭の、おそろしく品のいい紳士が、ちょっといぶかるような、まんまるに見開かれた眼で僕をふしぎそうにみつめた。こんな夜更けにひとり、どうしたんです。僕は正直に事情をはなした。ばあさんの家は、歩いて行ける距離でない。ましてや、この大雪のなか。タクシーもない。ホテルもない。すると紳士は、ちょうどその方面に用事があるのだから、送っていってくれる、という。ありがたい。僕はなんべんも重ねて礼をいって、後部座席にのせてもらった。助手席には、奥さんなのだろう。映画でしか見たことのないような黒いドレスに身を包んだ、切れ長な眼のきれいな婦人が微笑んだ。
 しかしこんな山奥の田舎で、それも真夜中に出会うには、あまりにも立派な身なりの夫婦。のみならず、その話し言葉、物腰、品性、ちょっと不気味なくらいに格調高いものがある。清潔な車内は、なにかお茶の葉のような、得体の知れない、よい匂い。まっくろな窓に映った、婦人の耳たぶには、きらりとエメラルドが光ってる。それでいてまったくいやらしさも見得も感じられない。なにより不思議なのは、きれいな都会言葉で話すから、ふたりともこの辺りの人たちではなさそうなのに、灯りもろくろくない真夜中の荒れた雪道を、この紳士はゆったりと、しかしすいすいと、まるで何千回も往復した道のように、いかつい高級車でのりこなすんです。そのあまりの捌き方に、おどろいていると、婦人は僕の心を読み透かしたように。旦那の運転は、すばらしいでしょう、これしか取り柄のないひとで……そうして彼女は、帽子に挿していた一輪の白い花を抜き取って僕に。おばあさまがご無事でありますように、と……あっというまに僕は祖母の家の門前に送り届けられ、再度のお礼をいう暇もなく、ふしぎな夫婦をのせた車は、闇のなかに消えてった。

 結局、祖母はたすかった。日に日に老い衰えながらも、庭の花に水をやりながら、なんとか今日を暮らしている……あの夜、僕を送ってくれた夫婦は、いったい何者だったのか。ほんとうは、タクシーをつかまえて、疲れのあまり夢をみていたんじゃないか。しかしそれがほんとうなら、僕は夢のなかから花を持ち帰ったことになる、それはいまも栞になって祖母の枕元にあるのだから。近ごろは忙しくって、盆と正月にもかならず帰れなくなってきた。だけれども、祖母の家を訪れたとき、やっぱり祖母の枕元の、園芸雑誌にまっしろな押し花の栞がはさまれていることをたしかめてしまうし、そのすぐ隣でむすっとした顔にサンタクロースの帽子をちょこんとのせている、なつかしい写真に向かって、ひとりきりのときだけ、そっとたずねてみることもある。僕を送り届けてくれたのは、フラン、君だったのではないのか、と

天使の里帰り

 


 ──投げやりにじゃあねと手を振った 希望が目を奪った   

                 siglyna『天使の里帰り』

 


 去年の秋頃、京王線から埼京線へと乗り換える新宿駅の地下通路に国立西洋美術館の広告が張り出されていた。
「素描展」。
 素描というからには、きっと下書きとかスケッチの類ばかりなのだ、それも国宝級の……朝の駅の雑踏、いちいち広告に足を止める者はいない。川の水がまた水によって押し流されてゆくように、誰もが眠たげな眼をこすりつつせかせかと歩んでそれぞれの職場へと散じてゆく。けれども何人かはこの美しい広告にどうしても後ろ髪を引かれるようで、ちらりちらりと振り返りながらいかにも惜しそうな様子で去ってゆくのである。かくいうおれもそうだった。
 考えてみれば美術館など久しく訪れていない。というより、まったく記憶にない。そもそもが百姓の家系の子で、芸術をたのしむ感性が希薄なのである。晴耕雨読、これに如くは無し。そう教えられて育ってきた。もちろん言葉ではなく肉体の接触をとおして。非の打ち所もない天性のプロレタリアートである。メロスには政治がわからぬが、プロレタリアートには芸術がわからぬ。鴨とり権兵衛、目下の晩飯(おまんま)代を工面することに精一杯で余力がない。芸術は物質的生活を営むうえで無駄以外の何物でもないのだから、暇人だけがそれを享受することを許される。つまり余裕が必要なのであって、原則貴族の、高等遊民の特権的遊戯である。
 と、まあ、屁のような理屈をこねていても仕方がないわけだけれども、実際おれの育った家系には絵画みたいな繊細なものを好む風土はまるで涵養されていなかったわけで、唯一の例外は母方の祖父の趣味が写真だったことだが、あれもはたして芸術と呼べるものか。父方の祖父はといえば起きているほとんどすべての時間を手仕事に捧げ、残りは鯨のように酒を飲むことに費やして死んでいった。祖父の最期を看取ったあと、祖母に残された仕事といえば家の前庭に狂ったように咲いては散ってゆく花の世話だけであり、その花も冬になれば大雪に埋もれ、この世の果てまで白一色に塗りつぶされた孤独な夜を一つまた一つと指折り数えているうちにとうとう月の光に病んで気がふれてしまった。優しかった祖母。手をつないで夏の日の堤防を渡り歩いた幼い日の遠い記憶。
 職人だった祖父にはたぶん思想など何もなかった。一生に一度だって、ロダンの彫刻のように考えたことはなかっただろう。しかし、おれは断言するが、祖父は祖父のやり方で思考していたはずだ。それはおれのように恵まれた環境で教育を受け、若い頃から多くの書物にほとんど無償で接することを許された人間とはたぶん真逆の方法だった。祖父にとっては作業と思考が別々のものではあり得なかったのだ。毎日朝から晩まで、道具を片手に単調な手作業を延々と繰り返すさまは、何も知らない人からみるといかにも無思考の象徴のように見えたことだろう。でもその実は違った。祖父にとって、手を動かすことは思考することそのものだった。脳みそではなく肉体で思考していたのである。何を? それは隠喩によってしか表現できないし、想像するしかない。もっとも、祖父はその過酷な生活の埋め合わせとして大量の酒を必要としたこと、一生を雪国の片隅で終えたこと、十一歳のときに父親が川に流されたために、六人の兄弟姉妹をその日から養わなければならなかったこと、こうした事実がすべてなのかもしれないが。
 西洋、に触れるたびにここはおれの場所じゃないと感じてきた。十年来憧れたプラハを訪れて、おれは日本永住を決意した。専攻した物理学の近代的合理性が、どこかむず痒くてしようがなかった。プルーストを読んだ過程で、感覚による拒絶が何度も生じた。最も美しいと思った都市が、最も堅牢だと信じた学問が、最も偉大だと教わった作家が、ついにおれには馴染まなかった。自分の本質はどうあがいても東洋的な領域にしかあり得ない、それに気づくのに三十年が必要だった。東洋的、アジア的なもの。マニエリスム、魔術、神秘、隠喩、文字崇拝、狂気……ことごとくが西洋に、そして古典主義に対立する。
 かつてあらゆる破壊的詩人たちが、つまりはランボーが、アポリネールが、マラルメが、強烈に憧れた世界の東の果てにはいったい何があったというのか。おれはそれを誰よりもよく知っている。そこには極彩色の楽園など存在せず、あるのは唯白一色に閉ざされた深雪(みゆき)の獄(ひとや)である。短い季節が束の間はたはたと色をきらめかせて、やがて雪に押しつぶされて土に還る、それを幾千と繰り返してきた土地である。ここに生まれた人間は、誰もこの土地から離れることができない。二度、三度と離れても、かならず死ぬ前までにはここに戻ってくる。短い夏を験(けみ)した花々とともに、その白骨を雪下に埋めんがために。その回帰衝動を郷愁の一言で片づけるのは簡単である。そんなチープな名前のつくものであってくれたら狂った祖母にとってもどれだけよかったか。
 里帰りして、その下に祖父の屍を抱いた雪の降り積もるさまを車窓からじっと眺めるたびに、おれもいつかはこの土地に戻ってきて命果てるのだろうかと想像する。そんなふうに骨になったあとのことばかり考えているのは妙なのかもしれないが、わずか半年前の盆休みには青々と一面にしげっていた夏草の匂いが、小川のせせらぎが、燃えるようなひまわりが、現にこうしてすべて死に絶えて雪に覆われている静謐を目の当たりにしているのだから、昼の短さに思いを馳せるのも仕方ないことである。
 とにもかくにも素描展。そこでおれは天使に出会った。スウェーデン国王の所有なる貴重な作品を傷めないよう、慎重な暗さにコントロールされた美術館の照明の下で。けたたましいほどの沈黙。おそらく真の傑作の前では、人は絶句することしかできないのだろう。料理をまえに、饒舌に感想を述べる余裕があるうちはこれ幸いである。神品は口にしたものを唖にする。演奏や文章もまた然り。数えるほどだが、そうした経験がないこともなかった。しかし絵で……おれは本気で天使の実在を疑わねばならなかった、どうして想像でこれが描けるだろうか。ふいに我にかえって絵の題名を見る。
『腕を組む天使』。
 やはり眼の前にいるのは天使だった。つまりは両性具有者(アンドロギュノス)である。衣服をまとっているが、骨格は男性的に思える。しかし顔は如何とも判別し難い。喉は……わずかに隆起があるような気もするが、描線のきわめて微妙な歪みである。喉に限らず、その細部は至近で注意深く観察しようとすればするほどただの線と点、つまりは二次元上の幾何学的要素に分解されてしまい意味を失うのだった。あわてて視点を引くと、ふたたび天使が立ち現れる。考えてみれば、人は線を引くことも点を打つこともできるが、天使を描くことなどできるはずがなかった。それがどういうわけで、現に天使がここにいるのか、まったく天才の技量というのは想像を絶するもの。神がかり的な力の前では、おれのように絵をたのしむ素質など露ほども持ち合わせていない感性の貧しい者ですら、感心を通り越して絶望するありさま。
 せっかく見物料を払ったのだからと、特別展のすべての絵をじっくりと見てまわり、常設展のほうも時間の許す限り鑑賞した。昼前に入場したのに、もうすっかり夕方になってしまっていた。調布へと帰ってゆく電車のなかで疲れた身体を隣人の背にもたせかけながら、おれはポケットから紙片を取り出し、題名だけを書き込んだリストを見ながらそれぞれの絵の美しさを思い返していた。心動いた絵は多くあった。が、おれはあの天使がどうしても忘れられなかった。恋をしたのである。翌々週末、あの人が故郷に帰ってしまうまえにせめてもうひと目だけでも会いたいと、再び美術館を訪れる計画を立てたが、折り悪く風邪に罹り、仕事にも出られないほどの高熱に見舞われてしまった。おれが意味をなさない線ばかりでたらめに描き重ねたような白昼夢にうなされていた頃、想い人は厳重な警備に護られて故国への帰途に就いたのである。天使の里帰り。かの人のお里は天国でも月世界でもなくスウェーデン王室である。はるか世界の西の果て。東洋的なあらゆるものから最も遠く隔てられた場所。そこには何があるのだろうか? きらめく理想郷か、あるいはやはり深雪の獄にすぎないのか。おそらく、おれは一生のうち、あの天使(エスキス)に直にお目にかかることは二度とないだろう、と思う。
 数日の後に熱は快癒した。美術館には今でもたびたび顔を出す。いないとわかっている人を、探すつもりもないのだけれども。

 

 

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風吹けば恋

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再就職で120社落ちて駅前でおんぎゃ、おんぎゃと鳴いていたおれを拾ってくれたのは荒川沿いのこぢんまりとした工場で、特殊な材料を小型機械で削ったり貼りつけたり、いわゆる加工業を営んでいる。最初に仕事を教えてくれたのはTさんとNさんの二人で、Tさんは今年36と歳も割と近く、雨が降っても槍が降ってもすき家のピンクのネギトロ丼しか食わないという偏食癖はあるもののすさまじく優秀。Nさんは歳は51とけっこう年配だが性格が優しくて何より謙虚、とにかく謙虚、謙虚を人の形に練り上げたような人で、おれのようなペコペコしながら入ってきたくせに二時間でタメ口をきき始めるなめた野郎にも、いまだに敬語しか使ったことがない徹底ぶり。そして、入社して三か月が経ったいま、この親切で謙虚なNさんは、(小学生のときに野球部で参加した市の綱引き大会で二階から目撃して軽く引いた)練習した大人による本気の綱引きと比べても遜色ないくらいの圧倒的な力でおれの足を引っ張っている。

 

最初の違和感は残業のつけ方を習ったときで、「たった7分だけどつけていいのかな……」みたいなことをいって躊躇していたから、(古い考えの人だな)くらいに思っていたけど、別にNさんが数百円損したところでおれには馬の下痢便くらいどうでもいいので放置していた。やがて板を削る装置の使い方をNさんから教わるようになると、慣性のことを惰性といったり、セクションのことをセレクションといったりしていてシンプルに学力の低さが露呈してきた。とはいえ人は学力じゃない。学力じゃないが……Nさんはいわゆる働きバチの原理を、(たぶんそういう言葉があることを知らないので)人生最大の発見としてみんなの前で披露したときに、「じっさい、前の職場には高卒の人もいれば茨城大や筑波大出身!(ここですしざんまいのポーズ)の超優秀な人もいて、差が激しかったんですよ!」と言い放った。茨城大? というのは一旦おいといて、いよいよ組んでひとつの仕事を一緒にやるようになると、眼を離したとたん躊躇なくデータの改ざんや加工後写真のすり替えをやり始めて、それがほんとうに人間が生物である以上必然的に生まれる一瞬の隙をついた手際のよさだったから技師としてはカスでもマジシャンとしては天才である可能性が出てきた。改ざんはダメだよ、と何度言ってもすぐにすりかえマジックを成功させるし、一瞬でドレスが変わって破った万札まで元通りにし、きれいな水を放つプラスチックの銃を何度注意してもおれが一秒眼を離した隙に汚水のなかにベチャっと投げ込むので、(死んだじいちゃんもこんな感じだったな……)と思い出して涙ぐみつつ、(しかしわざわざ汚水に投げるかね?)とは思いながら黙ってプラスチックの銃を洗っていた。Nさんは入ったばかりの20個下のタメ口のガキ(おれ)に注意されても反抗することはないが、こっちがまだ言い終わってないうちに「はい、はーい」と食い気味の返事をするのでかなりむかつき、それだけならまあいいが、お客さんと話しているときも同じことをやって、おれと二人になってから「結局どうすればいいんだっけ?」と聞いてくるので中二の合唱祭の日にしそぺい(ブルーハーツのCD貸してくれた同級生)の鼻にかました以来の本気のパンチが出そうになることもある。そんなNさんだがおれとは険悪なわけではなく(ほんとだよ)、むしろ飲む機会は一番多い。飯をおごってくれたことも何回かあるけども、必ずたいしてうまくもない学生しか来ないラーメン屋に連れていかれ、「なんでここに行列ができないのかわからない……」と首をかしげているのを見るはめになるのでじっさい酒のほうがありがたい。酒を飲むとNさんはよく泣く。実はおれだけが彼の無能を知っているのかと思いきやぜんぜん上司にばれていて、というか全員にばれていて、面談ではボロクソに言われ一年勤めたのに昇給もできなかったと嘆くのである。なら今からでも勉強して見返そうよ、というと「だってTさんみたいに優秀な人はもっと勉強するだろうし、いつまで経っても追いつけないからするだけ無駄なんですよ……」と論理的には完璧に間違っているが感情的にはよくわかる言い訳をする。しかし若くして優秀なTさんと自分を比べる権利はこの小さい背中のじいさんにはないのである。なぜいつもTさんとの相対評価なのかわからないが、さすがに中学の理科がわかってないのに加工技師を名乗るのはトマトの皮が剥けないのに調理師を名乗るくらい無理があるので今日の帰りにでも駅前の本屋で「よくわかる中学一年理科・定期テストから入試まで」を買って家でこっそり勉強しろよ、そうすれば三年後くらいには多少マシになってるはずだから、と思うのだが、おれはNさんが無能であることによって受ける恩恵が被る被害よりはるかに大きいのでそういう建設的なアドバイスというか余計な口ごたえはいっさいしないでニコニコうなずくだけである。じっさいNさんを観察していると、彼が勉強しない理由は「Tさんに追いつけない」というような論理(間違ってるけど)的なものではなくて、単に怠惰からきていることがよくわかる。はやい話がとてつもない怠け者なんである。どんなに上司に釘を刺されようと、タメ口のガキに怒られようと、給料が平行線だろうと、つねに風吹けば恋(!)のマインドをたもっている美しさがある。はっきりいって努力は嫌いさ~、はっきりいって人は人だね。チャットモンチーに憧れてえっちゃんと同じ髪型にしている17歳の女の子ならそれで許されるかもしれないが、この小汚い丘の上でションベンと薬品の臭いがする風に吹かれているのは51にして下っ端の冴えないじいさんなんである(ただし顔はいい)。仕事中、「オレは感覚でやってきた人間なんですよね」と人間国宝みたいなことをいつも言っているが、感覚でやっているんではなく理論がパーなだけである。どう考えたってそれを言っていいのは感覚でやってるのにセオリーを超えた結果を出す本当の職人だけであって、理論がパーなのでなんとなくやって失敗して呼び出されてるのはただの感覚じいさんである。おれは感じい(感覚じいさん)のことを勝手に無自覚的利己主義者と呼んでいる。感じいは、たぶん自分が利己主義者だと言われたら驚くだろうし納得もしないだろうが、じっさい頭が悪いので自分が利己主義者であることにすら気づいていない。実はデータ改ざんマジックもその原理に基づいていて、お客さんに誠実であることよりも自分が怒られないことを優先するからこそのあの手際なのである。感じいは洗浄機が壊れていることに誰より先に気づいていたが、おれがその洗浄機を使ってブラシを製品の上に落下させる瞬間が来るまでみんなには故障のことを隠して自分だけはだましだまし工夫して使い、おれの事故に気づいたTさんが装置の故障を全体に周知して修理の手配をしてくれたときにはぬけぬけと「大事になっちゃいましたね」とほざいていたが、この言葉にこそ感じいの本質は詰まっている。要するに彼の頭のなかでは放っておくとみんなが困るという事実に対して、自分が修理の手配をするのが億劫であるという事実が無意識に勝利をおさめているのである。その結果、優秀なTさんが割を食って損をしているわけだが、そのことにすら気づいていない。でもしょうがない。とにかく頭が悪いんだから。感じいの頭の悪さを証明するこんな事件もある。薬品を注ぐときに使う高さ30センチくらいの脚立がほしいよね、という話になったときに、上司が感じいにその調査を依頼した。はたして次の会議で感じいは、ちゃんとみんなにAmazonの脚立のリンクを共有してみせた。ところが、おっ、めずらしく仕事してんな、と思ったのも束の間。「なんか小さくね?」という声があがり、大きさを見てみると18センチしかない。指摘を受けた感じいはこういった。「オレは、こういう脚立がちゃんとあるってことを調べてきたのであってサイズはこれから……」そりゃあるだろ。Amazonなんだから。「もしも職場で~脚立が欲しいなら~Amazonで買えばいい~(チゲ&カルビ)」じゃねんだ。と全員がずっこけていたが、当の本人は何が悪いの? と眼を丸くしてリカちゃん人形の顔をしている。その澄んだ眼でじっと見つめられながら、(こいつくらいになると勉強しても意味ないのかもしれない)と少し考えを改めかけたが、感じいは休日になるとジムで軽く汗を流したあとサウナに欠かさず行って疲れを癒している。何に疲れているのか知らないが、サウナなんか行ってる場合じゃないだろ。インドの受験生くらい(ベンガルの親戚全員の期待を肩に背負って)必死こいて勉強しろ。別にインド工科大学に入らなくもいいが、電流と電圧の違いくらいわからないと仕事にならないのである。

今日、感じいはお客さんに送っておくよう言われた報告書(おれが書いたやつ)を送るのを忘れていて、夕方になってそれに気づいたおれが「送っとこうか?」と気を利かせたら、「いや、いいです……このままだと、オレ、なんもやってない感じになっちゃうんで」と、はま寿司で新幹線に乗って流れてく赤の他人の寿司を勝手にインターセプトすることに一切のためらいがなかった。が、どういうわけか不思議とまったくむかつかず、なんだこいつちょっとかわいいなと思ってしまってダメだった

 

youtu.be

 

※本稿は、2025年8月28日に公開された記事『感覚』を改題・修正したものです。

カリステファスに乗せて

 


 siglynaに

 

 十年ぶりに訪れると、都(ミヤコ)の住んでいた家はなくなってしまっていて、錆びて傾いた青い郵便受けだけが風に揺られていた。むせかえるように咲き誇っていた庭のエゾギクも一輪とて残ってはいなかった。エゾギク。学名、カリステファス・チネンシス。花壇に植えられる一年草。茎は高さ三十~六十センチメートル。葉は互生し柄をもつ。夏に外周が淡紅、藍紫、または白色の舌状花。中央が黄色の管状花からなる大型の頭状花序をつける。総苞は緑色……なんにもないな、とそれだけいってすぐに佐久間は無言になった。北大で植物学を専攻していた頃、佐久間は家庭教師センターの専属ドライバーだった。電車では通えないような僻地の家に学生教師を送っていく。ただそれだけの仕事だった。おれはいつも佐久間の運転でミヤコの家に通っていた。だからここの住所を正確には知らなくて、もし佐久間が札幌駅から片道四十分の道のりを忘れてしまっていたらここに辿り着く方法はなかっただろうが、しっかりと覚えていてくれた。学生の頃から佐久間はおれよりずっと優秀だった。おれのほうが得意なことなんて、漢字の読み書きくらいしかなかった。見渡すかぎりの田んぼの向こうに大きな吊り橋が見えていた。おれは路肩のベンチに腰かけた。夢のなかのようなもやのかかった夕暮れの風景が視界の端に霞んでいた。
 佐久間はまばらに雑草のしげった空き地に足を踏み入れると、傾いた郵便受けのふたを空けて中を覗き込んだ。「シキシマミヨコさんあての手紙が一通だけ届いているな」敷島美代子。敷島都の母親。この家に、娘といっしょに住んでいた。旦那は敷島正。北大で中国文学を教えていた。いつも清潔で感じのいい上品な身なりをしていて、講義もおもしろかったから学生に人気があった。ただ、ミヤコの母だけは、彼を許していなかった。ミヤコが生まれたとき、敷島教授は半年間におよぶ中国滞在の真っ只中だった。仕事だから仕方ない、という考え方は彼女にはできなかったんだろう。事実、敷島教授は妻より中国を愛していた。もっとも、中国より娘を愛していたけれども……はじめておれがミヤコの手紙を敷島教授のもとに届けたとき、彼はなつかしいような、さびしいような顔でミヤコが誕生した夜のことを語ってみせた……「それはそれは美しい夜だった。杜甫に『旅夜書懐』という五言律詩があるのは知ってるかい?」「いえ」おれはそんなものは知らなかったし、教授の話にさして興味もなかった。「……星が垂れるような美しい夜だった。娘が生まれたよろこびが、なんの変哲もない夜空を私にそう見せたのかもしれないけれどもね」けれども生まれた子は呼吸器の難病を抱えていた。病気のためにろくすっぽ外も歩けないミヤコは、もちろん家から二キロも離れた中学校に通うことなんかできないから、美代子さんは家庭教師センターに問い合わせて、毎週四回、午後一時から、全教科を教えに来ることのできる北大生を探した。なるほど勤勉な学生には難しい条件だ。しかし北大生がみな勤勉だとはかぎらない。そうしてようやく捕まったのが、ミヤコとは正反対にまったく健康なのに学校をさぼりまくり、仕送りはすべてギャンブルにつぎこみ、雀荘のメンバー業とラジオ局の深夜番で生計を立てていたおれだった。ミヤコが敷島教授の娘だと知ったのはずいぶん経った頃だった。ある日、彼女は父親にあてた手紙を書いて、それを届けるようおれに頼んだのである。ミヤコはおそろしく頭のいい子どもだった。はじめて会った頃は、まだ十三歳なのに年頃の女の子が好むような漫画やファッション誌には眼もくれず、父親の古い書斎からこっそり盗んできた『東方見聞録』を夢中で読んでいた。さいしょのほうこそおれはいちおう授業をやってみせるふりをしたけれどもすぐにやめた。眼の前にいる女の子はおれとは比べものにならないほど賢くて教えることなど何もないということに気づいたから。ミヤコは病弱なくせに性格は自由闊達、どうしようもなくわがままでかつ生意気だった。おまけに途方もないおしゃべりで、ふだんは話相手がいないものだから一日中部屋にこもって読みまくった本の内容や、それを種に際限なくふくらませた想像の世界についてしゃべりたいことがたまりにたまって頭のなかがパンパンのふうせんのようになっていたから、おれが部屋を訪ねていくとそれが一気に破裂するのだった。ミヤコの話は基本的に支離滅裂、荒唐無稽でむちゃくちゃなところもあったけれども、聞いていてふしぎと退屈しなかった。というのも彼女は、マルコ・ポーロが見聞したものごとを、まるで自分の眼で見て来たかのように臨場感たっぷりに語るからで、彼女の話にしぶしぶ耳を傾けること自体がある種の時を超えた想像旅行のような体験になっていた。ミヤコは時間のゆるすかぎり語ってみせた、マルコ・ポーロの見た美しい風景と街について。フォルモサの平原、トゥノカインの孤独の樹、チャガン・ノールの色とりどりの五種の鶴、シャンドゥの庭園、湖と緑の丘、プリサンギンの石橋、マンガラ皇子の宮殿、アミエンの金銀の塔、キンサイの遊覧船。あるいは彼を震えさせたあらゆる恐ろしいものについて。カラオナス人らの呪術と略奪、大砂漠の苦い毒水、ムラヒダの老人の楽園、ロブ砂漠の悪霊、アフマットの暴政、インド洋の海賊たち、怪鳥ルク。ときには彼を驚嘆させた数多の奇跡や魔法について。聖レオナルド尼僧院の湖に現れる魚、山を動かした片目の靴屋、決して腐敗しないペルシアの三人のマギの遺骸、カシュミールやチベットやインドの魔法使いたち、ヨハネ・バプディスト寺院の石、盃を浮遊させる博士たち、アダムの緑色斑岩の皿。そして何よりも彼を感動させた、世界最良の美食や宝物について。トルコマニアのカーペット、ジョルジアの大鷹アヴィジ、バスラの棗椰子、サプルガンのメロン、タイカンの塩、バダフシャンの宝石、馬乳酒クミズ、エグリガイアの白駱駝、クビライ・ハーンの純金の盃、カタイ人の美酒、ジュジュの琥珀織、カラジャンの魚、建寧府の黒い鶏が産む卵、サマラ王国のインド胡桃、セイラン島のルビー、ムトフィリ国の硬麻布、ゴジェラド王国の絨毯……ミヤコの愛読書は『東方見聞録』だけではなかった。彼女は青いパジャマのポケットにいつも銀色の秘密の鍵をこっそり光らせていて、かつての父親の書斎に自由に出入りしては古書の山から好みのものを探しあて、ひそかに持ち出していた。たとえばミヤコが敷島教授に宛てた手紙を書きはじめた頃、彼女はイブン・バットゥーダの『三大陸周遊記』を何十回も繰り返し読みふけっていたから、ある午後におれが訊ねるやいなや、ブルガールの沈黙交易について夢中で語りはじめるのだった。ブルガールっていう町を訪れる商人たちはね、得体の知れない闇の国の住民と貿易をするんだよ、まず犬にそりを引かせてね、四十日もかかる闇の国の入り口に行くの、そしたらそこに持ってきた商品をどっさりおいて、しばらく経ってから同じ場所にいくと、商品のとなりにテンとかリスとかアルミンのめずらしい毛皮がいろいろ置いてあってね、商人たちがそれに満足したら持って帰れるし、満足しなかったら放っておけば、毛皮を増やしてくれることもあるけど、なくなっちゃって取引が成立しないこともあるんだよ、でも、誰もこの闇の国の取引相手をみたことがないから、人間なのか魔物なのかもわからないんだ……語り口調は年相応にかわいいものだけれども、こんな話をする十三歳の女の子はきっと世界じゅう探してもミヤコくらいしかいなかった。ミヤコは記憶力も想像力も空恐ろしいものがあったけれども、同時にどこか常識が欠けていたり、うっかりしているあぶなっかしいところもあった。おれの眼の前で父親あての手紙を書き出したときもそうだった。封筒に宛名を書くとき、ちょっと悩んでから堂々と表側に「敷島都」と自分の名前を書き出したからあわてて止めた。「ふつう封筒の表には敷島正様、とか書くんだよ。おまえの手紙の場合は、郵便屋さんじゃなくておれがこっそり届けるからパパへ、でもいいけども」ところがミヤコは「パパに手紙を送ろうなんて人は私くらいしかいないんだから、表に書いたって裏に書いたって同じことでしょ」などと言い張る。「じゃあ裏にパパの名前を書くのか? それはどう考えてもおかしいだろ」ミヤコはおれを無視して、本棚から分厚い深海魚の図鑑を取り出すと、そこにたくさん挟んであった庭のエゾギクの押し花を一枚だけ取り出して封筒にそっと入れて、喜んでくれるといいな、などと無邪気に笑っていた。じっさい彼女が父親と連絡をとる手段はおれが何度か届けた手紙のほかにはなかった。家庭教師として雇われたはずの家で、おれはろくろく勉強も教えずに郵便配達をしていたのである。敷島教授によるとミヤコの手紙の内容は他愛のないもので、庭のお花できれいな栞を作ったよ。一つ送るから使ってね。とか、ママの作るハンバーグやオムライスがおいしいよ。とかそんなものらしかった。ミヤコは自分の書いた手紙は恥ずかしいからといっておれには見せてくれなかったが、父親からの手紙はいつも見せてくれた。あるとき敷島教授は「ミヤコの将来の夢は何? もしなりたい職業があったら、ぜひ教えてください」と書いてきたことがあった。おれはミヤコの将来の夢を知っていた。彼女は常日頃から、マルコ・ポーロやイブン・バットゥーダのような大旅行家になるのだといっていたから。
「私はね」ベッドの窓に映った、田んぼの向こうの大きな吊り橋を眺めながら彼女はいった。
「いつかこんな病気はすっかり治して、旅行家になって世界中を駆け回るんだ。そして見たこともないものをいっぱい見て、食べたことのないものをいっぱい食べて、数え切れないくらいのいろんな人に出会って、それを本に書いて世界中の人を感動させるんだ。それが私の夢」
「じゃあ、おれもその本を読むのを楽しみにしておくかな」
「先生にはトクベツに、手紙でも書いて送ってあげるよ」
「そりゃうれしいね。お前の手紙は、独特だからすぐわかる」
「あっ、またそうやって人をばかにして」
 大旅行家になって旅行記を書きたい、というのがミヤコの夢だったが、いつも「ぜったいに本名じゃなくてペンネームで書くけどね」と断言していた。父親に宛てた手紙を入れた封筒の表には、いつも堂々と彼女の本名が書かれていたけれども。その手紙を受け取るとき、どういうわけか敷島教授はいつも意味ありげな微笑を浮かべていたのを覚えていている。敷島都。彼女はいつも自分の名前が嫌いだといっていた。旅行家にあこがれる彼女にとって、都会を意味する漢字一文字の名前が与える印象は閉塞感が強すぎたのだろうか? 「でも、もしいつかおまえが自分の名前を好きだと思えるときが来たら」おれは都という名前が気に入っていたからこういった、「そのときはぜひ本名で書いてくれ」ミヤコは黙って頷いた。枯葉の降り積もった近所の公園で話したことをおぼえている。ふだんミヤコは一日じゅう部屋にこもっていたけれども、月に一度か二度だけ母親の許可をもらって、おれのお守りつきで近所の公園に散歩にいくことがあった。微熱にほてった全身で感じる外のつめたい空気がよほど気持ちいいのか、ミヤコは枯葉のうえを駆け回り、冬には雪のうえで寝転んで、好き放題にはしゃぎまくったから、いつも母親に怒られていた。それでもめったに外出できない娘を気の毒に思っていたのだろう、またこの子は性懲りもなくはしゃいで! などと怒りはするけれども、たまの楽しみをむりやりやめさせることはなかった。そうして冬がすぎて春になって、あるよく晴れた四月の日、家庭教師センターの受付から電話があった。「敷島さんが契約の終了を希望したので、明日からは教えに行かなくても結構です。娘さんのご病気の治療のために、ロンドンに引っ越されるそうです。今月分の給料は末日にまとめてお支払いします」それからしばらくの間、何をしてどんなふうに過ごしたのか、実はあまりおぼえていないし、あれからもう十年が経つけれども、敷島教授とも美代子さんとも、もちろんミヤコ本人とも連絡はとれていない。
 長い話のあいだに、佐久間は三本のタバコを灰にしていた。「まあ、とれないわな……向こうも何か報せようにも、お前の住所も電話も知らないだろうしな。お前はお前で十年間もそのことを忘れられなくて、ようやく決心がついて昔の家に来てみたら案の定更地になってた。さすがにあきらめるしかないんじゃないか」「住所も電話もわからない……か」おれはほとんど絶望的な気持ちになりながら呟いた。「なあ佐久間」「ん?」「お前なら、おれより賢いお前なら、住所も電話もわからない相手に何かを伝えたい。そんなときにはどういう手段を取る?」佐久間は最後の一本を灰皿にねじ込みながら少し考えた。「現実的にはたった一つの方法しかないだろうな……つまりあらかじめ約束した場所に何かメッセージを残しておくことだ。でもそんなことはお前だってわかっていて、実際に来てみたら何もなかったけどな」そのとき、おれはようやくすべてを理解した。(そうか、沈黙交易だ……)床に落としたガラス細工が粉々に砕ける映像を逆再生する。そんなイメージで、ばらばらだったすべての記憶の断片がつながって一つの具体的な形を成した。おれの、たった一つの、きわめて重大な思い違いを正すために。シキシマミヨコさんあての手紙が一通届いている。星が垂れるような美しい夜だった。娘が生まれたよろこびが、なんの変哲もない夜空をそう見せたのかもしれない。先生にはトクベツに、手紙でも書いて送ってあげるよ。お前の手紙は、独特だからすぐわかる。彼女はいつも、自分の名前が嫌いだといっていた。おれのほうが得意なことなんて、漢字の読み書きくらいしか……
ペンネームは、都のほうだったんだ」
 佐久間の手から受け取った水色の封筒は、風雨によって多少色褪せてはいたけれどもそう昔のものではなかった。表には彼女の本当の名前が、中国文学者の父親から贈られた敷島美夜子という名前がきれいな大人の筆跡でしたためられ、裏には小さく先生へ、と書いてあった。そうして、ひらいた封筒から数葉の便箋とともに、見おぼえのある花びらの栞がはらはらとこぼれ落ちてくると、おれはようやく理解した。あの夢のような日々のすべてが夢ではなかったことを。かつて寝たきりだった夢見る少女は、いまや幼い夢をかなえて、世界のどこかを気ままに歩きまわっていることを。そして小さな大旅行家は、ほんの数か月まえに生まれ故郷に寄り道して、もはや何も届くことのなくなった郵便受けに、一通の手紙を投函したことを──かつてこの庭にむせかえるように咲いていた、色とりどりのカリステファスに乗せて。

 

youtu.be

微笑

 

 

 

 陸橋の赤さびた鉄骨の下で杏一郎《きょういちろう》は思った。おれはなんとついてない男なのだ、と。
 冷めた、安い弁当の箱が入ったビニール袋を左手にぶら下げて、違法駐輪の自転車が乱れに乱れもつれあっている、こんな汚い町のなかをぶらついている状況が、いかにも己にはふさわしくない。
 現状が、とにかく不満だった。杏一郎には職がない。というより、たった一月前、自ら手放した。それからというもの、無我夢中で新たな職を探し求めているけれども、一向に内定の得られる気配がなかったのである。
 今朝も、これといって用事がないのをいいことに、十一時頃までぐんかぐんかとまぬけないびきを立ててねむっていた。去年の一月に越してきて以来、一度も大がかりな掃除をしていないアパートの六畳間に転がり、あたたかな毛布に二重三重にくるまって、好物の中華料理を、それもとびきり上等なやつを、他人の金でたらふく食らう夢を見ながらいかにも幸福といった面持ちでねむっていた。それなのに、携帯電話の音がけたたましく鳴り響いてその幸福な幻想をしたたかに打ち破り、何事かと訝っておそるおそる出てみれば、転職サービスの仲介人の千葉というガキから、第一志望であった大阪の会社の人事より不採用の結果を受け取ったとの旨を告げられた。
 杏一郎はむかつきのあまりただの一言も発することができず、黙ってうんうんとうなりながら千葉の文句に耳を傾けていた。そうして、その話が終わるや否や、ほとんど投げやりに電話を切断し、たったいままで自分をくるんでいたぬくい毛布に勢いよく携帯電話を投げつけた。
「あの糞ガキ、バカにしやがって……」
 おそるべき怒りの渦が、杏一郎の腸のなかに渦巻いていた。が、その得体のしれない燃えるような渦は、幾度かの深呼吸とともに、感情から論理へと徐々に姿を変えていった。杏一郎は生まれつき感情の起伏がはげしい男だったが、同時にきわめて論理的な男でもあった。杏一郎のなかで、感情と論理はたがいに矛盾しなかった。その根本にはたった一つの本質的な現実の感触、とでもいうべきひどく具体的なモノだけが存在していて、その現実の感触なるモノは、あたかも気体と液体がたがいに相転移するように、時間の経過とともに杏一郎の内部で感情の相から論理の相へと、あるいは論理の相から感情の相へと、めまぐるしく遷移するのであった。
 そしていま、杏一郎のやるせない不満は、自らに不採用を突きつけた大阪の田舎のしょうもない糞会社から、転職サービスで自分を担当している千葉のほうに向けられていた。
「糞ガキが、どこまでもおれをなめくさりおって。何が不採用じゃ。よくも、おれに同情するような、生意気な口ぶりで報告しやがったな。そもそも、てめえの仕事はなんだ。おれの仕事を死にもの狂いで見つけ出して、なんとしてでも内定の約束を取り付けることじゃねえのか。それをてめえときたら、一回こっきり電話したくらいでおれのことをなんでも理解したつもりになりやがって、朝から晩まで皆目見当ちがいの、糞みてえな会社の求人ばかり紹介してきやがる。いったい、てめえみてえな三流大学を出て、転職サービスなんて馬鹿でもできるような仕事にしか就けねえ低能ならともかく、本気で探せば、有能なおれにはもっとマシな勤め先があるんじゃねえのか。てめえにやる気がねえから、おれまで泥をかぶる形になって、いつまでたっても仕事が決まらねえんだろうが」
 小声でそんな悪態をつきながら丸めた布団を殴りつけているうちに、今日は一日何もせず眠っているつもりだった杏一郎も、さすがに二度寝の興はさめきってしまい、洗面所の水で日焼けした顔を洗うと、いつもの如く携帯は電源を切って電子レンジのなかに置き去りにし、高校から使っているために牛革がすりむけにすりむけたボロキレのような財布だけをチノパンのポケットに押し込み、薄汚れたTシャツのうえにパーカーだけを羽織って病気のような臭いにみちた昏い部屋から這いずり出した。
 とはいっても、とくに行くあてなどあるわけがない。ただ、部屋にこもっているとおかしくなりそうだったから、慌てて逃げだしてきた格好である。財布の中身をあらためてみると、千円札が二枚と、硬貨がちょっとばかり入っているだけだった。いちおう、二つ持っている銀行の口座には、合わせてまだ三十万円弱の蓄えがある。しかし、次の給料がいつ得られるかとんと見通しのつかないこの状況では、金は一円でも節約せねばならない。

 杏一郎は、学生時代からこの節約ということがまるで苦手だった。
 当時は学費も教科書代も、恋人の渚といっしょに住んでいた札幌のアパートの家賃もすべて親に払ってもらい、さらに月のはじまりには八万円もの仕送りを受け取っていた。周囲の学生の台所事情と比べてみても、杏一郎は己がかなり潤沢な資金援助を受けているほうだと自覚していたが、毎月一日に引き落とした八万円は、月の中頃に達するのを待たずに、食費と娯楽費にあっというまに消え去った。なにも、常識はずれな浪費をしたわけではない。ただ、大食らいなうえに舌が肥えていて見栄っ張りで、かつ節制、清貧を実践する周囲の人びとを心から見下し、始終馬鹿にしくさっていた杏一郎は、日に三度の食事をすべて近所のレストランでまかない、その半分以下の値段でいちおう腹を満たせる大学内の学生食堂などには眼もくれず、夕方になれば後輩をつれて夜のすすきの・大通の歓楽街に繰り出すこともしばしばだったために、八万円の仕送りは瞬く間に雲散霧消したのである。
 ゆえに、月の後半はひもじい生活をせざるを得ず、いちおう週一の夜勤でつとめていた地方ラジオ局のバイト代と、知り合いの麻雀荘のメンバーとしての給料が月末に手渡されるから、それを受け取るまでは渋々いっしょに住んでいた渚の手料理を食ったり、友人の家を渡り歩いたりして凌いでいたのである。しかし、幾度となく耐えがたい状況に追い込まれても、杏一郎は持ち前の図々しさを失うことはなかった。というのも、彼は、この消費の計画性のなさは、本質的には自分の罪ではないと認識していたのである。
「おれの悪いものは、ぜんぶ父親譲りなのだ」
 常日頃から、杏一郎はそんなことを周囲に言いふらしていた。杏一郎の父・富義《とみよし》は、奥羽山脈のふもとの雪国で、職人として働く中卒の父母のあいだに生まれ、長じてのちに父の小さな店を継いだのだが、痩せて寡黙で厳しく、いかにも昔かたぎの職人風情だった父とは異なり、まるまる肥って明朗闊達な、まさに商売人の手本のような大男になっていた。地元の四流大学に、それも推薦で入学して学生時代は剣道に打ち込み、学業はごまかしごまかしなんとか卒業した富義は、およそ知性とか教養と呼べるものはまったくといっていいほど持ち合わせていなかったが、その代わりに驚くべき商才を持っていて、二代目として店を大きくすることにつとめ、流行りもの好きでもあったために長男の杏一郎が生まれた頃に普及しはじめたインターネットにもいち早く目をつけ、ネット・ショップによる全国への販売を業界内で最もはやくに取り入れた。かくして、祖父の代からの小さな店はたちまち濡れ手に粟とでも形容すべきほどの大儲け、大繁盛と相成ったのである。
 そんな富義は、貧困家庭で育ったうえに、若い頃からテレビで料理番組を見るのが何よりの楽しみだったらしく、ブラウン管の画面のなかで俳優や芸人やお相撲さんが一流シェフが眼のまえでこしらえる見たことも聞いたこともないような和洋中の高級料理の数々を食い入るように凝視しては、あれはいったいどんな匂いが味がするんだろうかと日夜想像をたくましくしていたために、大人になって偶然にも商売がうまくいき、一時の富を得てから後はその稼ぎのほとんどを飲み食いのために派手に浪費しはじめたのだった。
 そんなわけで、杏一郎は幼い頃から父に連れられて頻繁に高級店に出入りしていたのだが、そのために舌は不必要なほどに肥え、自分が料理が得意ではないこともあって、家で自炊した料理などまずくて食えないと思い込んでいるふしがあった。おまけに途方もない大食らいである父に似てやはり杏一郎も量を好んだし、見栄っ張りの性質もしっかり受け継いでいたために、レストランで万が一隣の席に同級生でも来ようものなら、六百円のB定食をほそぼそと食っているところなど絶対に見られたくはなかったから、意地でもとくに値の張るメニュー、すなわち和牛ヒレステーキだったり、特上握り五人前だったり、中華ならフカヒレだったり、そんなものばかりを強いて注文する癖がついていた。
 プライドばかりが異常に高く、金に頓着しないスタイルをむりに通していた杏一郎は、当然のごとく後輩たちからは好かれた。相手が歳下ともなれば、杏一郎はますますむりをしてうまいものばかりを食わせたがり、さらにはその後夜の店にいくための小遣いまで気前よく一万円単位でやっていたのだから、学生生活には充分なはずの仕送りがあっというまに霧消するのも道理である。
 ところが、二度の留年を重ねた大学生活も四年目に突入するにいたって、このかわいい後輩たちは一人残らず杏一郎大先輩のもとを去って、二度とは帰らなかった。
 別段、後輩たちが愛想を尽かしたというわけでもなかった。たしかに、怠惰で頭の回転も鈍く、学業不振のために一年と三年で一回ずつ留年もしているくせにむやみやたらにプライドだけは高い杏一郎のつまらぬ自慢話のくりかえしに辟易していた者も少なからずいたにはちがいない。が、彼らとて貧乏であるがために、たったそれだけの理由で、電話で一声かければいつでもうまい飯と酒をたらふくおごり、小遣いまでホイと投げてくれる気前のいい先輩とのせっかくの縁をそう容易く断つはずがなかった。じつのところ、この繋がりが突然絶たれたことによって困惑していたのはむしろ杏一郎よりも彼ら後輩たちだったのである。
 すなわち、後輩たちではなく、杏一郎のほうが突如として全員の電話番号を着信拒否状態にして、一切の音信を断ったのである。その理由というのは他でもない。つい一昨年までは飛ぶ鳥をも落とす勢いで成長を遂げていた実家の稼業が、去年になって原材料費の高騰、および需要の減少といった複数の避けがたい要因が絡まりあったためにゆるやかな失速をはじめ、それをこれまでにもたびたびあった一時的な不況に過ぎぬと捉えてこれといった対策を講じなかったがために、今年になっていよいよ店は深刻な赤字に陥り、いまや富義は杏一郎への毎月の仕送りどころか、通りに構えた店、および自らが住む借家の家賃すらろくろく払えず、四月を迎えるにあたってとうとう、杏一郎への一切の資金援助が止まってしまったのである。
 さて、こうなると杏一郎はいよいよ困り果てた。アパートの家賃の四万円は、当面のあいだは渚と折半することにして、夜勤とメンバーの給料からあてればいい。食費も、しばらくはステーキだの寿司だのは我慢しなければならないだろうが、渚がいるかぎり食うものに困るということはないし、どうしても酒など欲しくなったら、これまでのように友人の家にでも頼ればいい。が、月始めの恒例となってしまっている、後輩たちのための散財は、金輪際、まったく諦めなければならないだろう。
 ふつうなら、「おれ、今月ちょっと金がなくてさ」などとごまかしてみたり、あるいは「バイトがクビになっちまったんで、今月はゴメンな」と方便を弄してみたりすることもできただろう。正直に事情を話して、これからはもっと安い店で、もしくは折半での付き合いを求めることだってできただろう。しかし、無能の屑のくせにプライドだけはいっちょ前に高い杏一郎は、金銭的な余裕がないということを、どうしても後輩たちに知られたくなかった。
(あのガキどもが、嘘でもおれを尊敬しているのは、金をたくさん持っているというただそれだけの理由なんだ。もし、おれがあいつらと同じような糞貧乏だなんてことがばれたらどうなる。あいつらはたしかに糞貧乏だが、都会育ちのエレガンスがあるし、頭は切れるし真面目だし、身体は健康、単位だって漏らさず集めてるから、数年後には一流企業でバリバリ稼ぐ側の人間になっているだろう。そんなあいつらが、糞田舎の生まれで、学業もろくろくできなくて、不健康でにぶくて器量も悪い、そんなおれがとうとう糞貧乏にまでおちぶれたのを知っちまったら、いよいよ本格的におれを見下し、侮蔑し、ニタニタ気持ち悪い笑みを浮かべて嘲笑してくるだろう。どんなことがあっても、それだけは許すわけにはいかねえ)
 そんなふうに考えた杏一郎は、もはや彼らとの関係の一切を無断で断つ以外にこの状況を無傷で切り抜ける方途はないと判断し、躊躇なくすべての番号を着信拒否に設定し、万が一公衆電話からでもかけてこられると面倒なため、携帯の電源も切って、さらには念のために電子レンジにまで入れて、ひたすらに時間が過ぎるのを待っていたのである。
 杏一郎という男が、こんなふうにして衝動的に人とのつながりを断ってしまうのはこれがはじめてのことではなかった。中学も高校も、卒業すると同時にすべての同級生との連絡を絶った。さらに、この事件の数年後に大学を卒業したさいも、同じようなことをしでかした。

 大学の六年目、つまり最後の年の春、渚のいなくなったアパートで、杏一郎はひとり無聊をかこっていた。杏一郎のいた物理学科では、卒業のためにかならず卒業研究と呼ばれるものを提出しなければならなかった。そして、卒業研究をやるためには、どこかの研究室に配属させてもらい、そこの教授の監修のもと、大学院生に指導を仰ぎ、丸一年を通して実験やデータ分析、考察を重ねることが求められた。研究室は学科内に十五余りも存在していたが、当然、内容や教授の人柄によって人気不人気があり、基本的には学生どうしの話し合いで決めるようにと教務からは通達されているものの、実質はまったく成績順の、ドラフト会議めいた儀式によって決定されているのが実情であった。
 そのドラフトにおいて、杏一郎の発言権はないに等しかった。優等生から順番に「おいしい」研究室を獲得してゆくなごやかな、笑いの飛び交う春の雰囲気のなかで、まわりより一つも二つも歳上の杏一郎はひとり、ふてくされたような面持ちでずっしりと黙りこくっていた。じつのところ、一年の成績表が出た時点で、こうなることは必定だった。たったいま眼のまえで一番人気の素粒子研の座を射止めた那須くんの成績は、五段階評価で四・三点と理学部全体で見ても主席に近いレベルだった。それほどではなくても、ここに集まった学生は、それなりに優秀な者なら三・五点を超え、それほど優秀ではない、いわゆる普通の学生たちでも二点台後半は維持しているその数値評価において、杏一郎は一年時に○・○九点という数字を叩き出していた。二千二百人を超える一年生のなかで、杏一郎の成績は下から七番目だったのである。無論、留年は確定していたが、このときの数字が足を引っ張り、それから三年でどんなに完璧に近い成績をあげても到底三点なぞには届かないことが確定してしまった以上、杏一郎は一切の学業上の努力を放棄していた。

 いったい、どこで間違えてこんなことになってしまったのか。
 奥羽山脈のふもとの町で、田んぼのど真ん中にぽつんと孤島のように浮いていた今はなき湯澤小学校で、杏一郎はまったくなんの努力もせずに神童と呼ばれるほどの成績をおさめていた。
 湯澤中学校に進学したのちも杏一郎の地位は盤石だった。ろくろく授業に耳も傾けずに部活と遊びに明け暮れていたにもかかわらず、百二十人の学年で三年間トップの座を守りつづけて卒業した。小学校と違った点は、たった二人だけだが、杏一郎に比肩しうる成績の生徒がいたことである。一人はヤッツと呼ばれていたハンサムで背の高い、人気者の男子生徒で、もう一人はナッちゃんと呼ばれていたおとなしい美術部の女子生徒だった。
 いちおう二人のライバルがいたとはいえ、中学時代の杏一郎は、己こそ真の天才、この大雪に埋もれた山奥の糞田舎に奇跡的に降り立った、史上唯一の天才であると信じて疑わなかった。ヤッツは親友でもあったし、たしかに非の打ち所がない、男でも惚れそうないい男であった。が、やつの成績がよかったのは、どこまでも勉強家だったからで、あれだけ勉強していれば馬鹿でも百点が取れるというくらいの量を、誰に自慢するでもなく、黙々と積み重ねた結果があの好成績だったのを、杏一郎は知っていた。しかし、だからといって特別尊敬の念を抱くということもなく、(あいつ、ハンドボール部でキャプテンまでやってんのに、ホントようやるよ)といささか呆れたような、半分同情するような気持ちでそのさわやかな努力を眺めていたのである。というのも、ヤッツの成績は学年で三番手が定位置であり、あれだけ必死の努力をしてようやく、まったくなんの努力もしていない杏一郎にギリギリ追いつけない位置をキープするのがやっとのありさまなのだから、天性の資質では己のほうが圧倒的に勝っているはずだという確信があったのである。もう一人のライバル、学年で二番手が定位置だが、ときには杏一郎も一杯食わされることのあったナッちゃんに関しては、母親がひじょうに厳しい教育ママで、毎日家庭教師をつけているから、たびたび部活を休まされているという噂が、彼女をねたむ友人たちのあいだでまことしやかに囁かれていたがために、杏一郎はたとえたまさか学年トップの座を一点か二点の僅差で譲り渡すことがあったとしても、(いやあ、たいへんだねえ。親が厳しいと、毎日家庭教師に仕込まれるなんて憂き目に合うんだから。それだけ根詰めてやって、また不良の杏一郎くんに負けたなんてことになったら、ママも激怒して、頭の血管破裂しちゃうんじゃないの。それはあんまり気の毒だから、このさい、半年に一回くらいは、気持ちよくトップを譲ってあげなきゃね。なにせ、おれのほうは、家庭教師も雇ってなければ、授業でノートもとってない、部活もあたりまえにやって、夜はうまいものたらふく食って、テレビドラマ見てジャンプ読んで、それで苦もなく取ってるトップなんだから、ケチなことはいいませんよ)とでもいわんばかりのつもりで、ある種の満足感すら抱きながら廊下に張り出された順位表を余裕でニコニコ眺めていた。
 そんな杏一郎も、学年でただ一人だけ県下トップの高校に進学すると、さすがに上位の成績を維持することはできなくなった。しかし、やはり地元の中学ではトップを占めていたのに高校では通用しないと思い知らされた大半の者が、ただちに才能にかまけるのをやめ、一人また一人と己の倨傲を戒めて努力家へと変貌してゆく入学後の流れのなかで、杏一郎はやはり、生来の怠惰と過剰な自負のために、彼らと同じ方向に学問の舵を切ることはしなかった。
 杏一郎は当然のように東大受験を決め込んでいた。中学時代からまわりの大人はみんな「この子は将来、確実に東大に入るよ」と断言していた。受験業界を熟知しているはずの、模擬試験を受けにいった塾の講師たちですら口を揃えてそんなことをいったから、自然に杏一郎も、(ふうん、おれは将来商売をやって大儲けするから大学なんてどこでもいいと思ってたけど、東大卒ってのも悪くねえな)と思うようになり、いつの頃からか、出会う人出会う人に「おれ、東大生になりますから」とふれまわっていたのである。そして、現に杏一郎の高校からは毎年数人から十数人の東大合格者が出ていたから、杏一郎もまた三年後には自分がその一人に数えられているに相違ないと確信していた。しかし杏一郎は、まわりの東大志望者がみな、揃いもそろって一年の春から部活も恋愛も文化祭も二の次にして狂ったように勉学にばかり励んでいるのを冷ややかな眼でみつめては、三年の夏から本気で取り組んで東大に逆転合格しました、というような謳い文句が並んでいる糞のような受験雑誌の合格体験記なんかを飛ばし読みして、(まったく、進学校なんてもんは、どうしてこうガリ勉小僧ばっかり集まるかねえ。東大なんて、それなりの地頭のよさがあれば、三年の夏、いや秋にもちょっと本気で根を詰めりゃああっちゅうまに受かるってことが、どうしてわからんのかなあ。せっかく一度っきりしかない高校生活で、一年生から勉強勉強勉強じゃあ、受かるもんも受からねえってわけよ。ここはひとつ、多少成績が落ちちまっても気にせずパーッと遊んで、三年になった頃にガーッと勉強して、いっちょうこの眼鏡小僧たちのつぶれた鼻を明かしてやろうじゃないの)と糞のような妄想にふけっていたのだった。入学したばかりの頃は、どうどうと東大志望を公言している杏一郎のもとに、やはり東大志望の者たちが集ってきて、にわかにサークルじみたものを形成し、勉強会など開いたことすらあったが、そのうちに軽薄な思想をもてあそんでいた杏一郎だけが勉強会もそっちのけでいやがる彼らを盛り場につれていったり、テニス部の連中に金を払って部室を借り受けて麻雀大会を開いたりし始めたため、徐々に彼らは杏一郎から距離をとるようになり、いつのまにか彼はどちらかというとおちぶれた、かといってガチガチの進学校のなかでは思い切って不良にもなりきれない中途半端に不真面目な連中とばかり付き合うようになっていったが、表面上では彼らとうまくやっているように見せつつ、やはり心底では、(いまは仲良くしてやってるが、お前らとおれでは人種がちがうんだから、あんまりなれなれしくすんなよな。なにせ、おれはこんなに遊んでても余裕で東大に行って、将来は商売で大儲けすることが、もうほとんど決まっちまってんだもんなあ。その点、お前らは、地元の糞田舎の中学では多少幅を利かせてたかもしんねえが、高校に来ちまうと、まるっきりだめだったな。このままずるずると三年間を遊び暮らして、しょうもねえどっかの県立大学にでもやっとこさ入って、どっかの糞田舎のしょうもねえ糞みてえな中小企業で馬車馬のようにこき使われて、一生社会の歯車のまま、終わっていくんだろうからな)というふうに彼らのことを軽蔑していたのである。

 そして三年後、当然のように杏一郎は東大に落ちた。いや、正確には落ちることすらできなかった。センター試験の点数で、二次試験の足切りを食らったのである。己を天才と信じて疑わず、世の中のすべては己の望むとおりになると思っていた杏一郎の、これははじめての大いなる挫折であった。杏一郎は実家に帰って両親のもとで嘆願し、
「あと一年、一年だけ予備校に通わせてくれたら、きっと東大に受かりますから。今度の今度は怠けないで、かならず必死に一年間、やり通しますから」
 と涙ながらに訴えた。両親は常日頃から杏一郎の成績と素行の悪さをときには遠回しにたしなめつつも、「大丈夫、大丈夫、かならず現役で合格するから」との言質を信じて基本的には黙って見守った挙句がこの体たらく、さすがに堪忍袋の緒が切れる寸前であったが、あのプライドの高い息子がこんなにも頭を下げているのを見るのもはじめてであったため、心を動かされるだけの感慨がないこともなく、そんなに言うならばと仙台の予備校に下宿しながらの一年間の浪人生活をついには許可するに至ったのだった。
 そうして仙台で一人暮らしはじめた杏一郎は、大方の友人の予想した通りに、勉学などそっちのけで、親の監視がないのをいいことに一年間好き放題遊び呆けるかと思いきや、なんといよいよ改心して真面目に勉学に打ち込みはじめたのだった。これにはいっしょに予備校に通いはじめた同郷の友人たちも驚いたが、あの怠惰で自信過剰な杏一郎が、今度の失敗にはほとほと心底懲りたらしく、一か月が経ち、二か月が経ち、受験の天王山と呼ばれる夏を迎えても、朝の九時から夜の十時まで、ただの一日の休むことなく予備校に通いつめてひたすらに勉強に打ち込んでいたのである。そのかいあって、夏の東大模試では現役時代はEしかつかなかった合格判定の欄にはとうとうBの判が押されるに至り、予備校の担任ですらが、「このペースで成績を伸ばしていけば、きっと理一には合格できるよ」と太鼓判を押すのだった。
 ところが、秋になって杏一郎の成績の伸びは頭打ちになる。その上、模試の判定はBからCになり、十月の本番レベル模試ではとうとうD判定にまで落ち込んでしまった。しかし、杏一郎はサボっていたわけではなかった。むしろますます迫力をまして、鬼のごとくに勉強に打ち込んでいた。それにも関わらず成績が頭打ちになり、判定が下がり続けた理由はシンプルだった。そもそも杏一郎には、他の東大志望者ほどには勉強の才能がなかったのである。夏頃までは、現役の受験生は部活に打ち込んでいたり、生徒会をやっていたり、色恋にうつつを抜かしていたりするからそこまで目立った成績はあげないものだが、秋ごろになってようやく受験勉強に本腰を入れ出した彼らの伸びはすさまじく、半年をかけて積み上げてきた杏一郎の努力を、ものの二か月かそこらでみんな追い抜いていってしまったのである。
 杏一郎は焦ったが、今から急激に成績を伸ばす方法などありはしない。ただ、「このままいけば受かる」という、夏頃の担任の言葉をかたくなに信じて、毎日授業を受け、問題集をくりかえし解くほかに道はなかった。そうして迎えた年明けのセンター試験で、杏一郎は二度目の失敗を喫した。得意科目であったはずの国語の試験で六割ちょっとの点数しかとれず、東大に出願したところで再び足切りの憂き目に合うのは必定、受験校の変更を余儀なくされたのである。
 かくして杏一郎は第二志望だった北大を受験し、前期試験で合格した。祖父母が中卒、両親はともに四流大学、百等親の裾野まで見渡してもまともな大学の出身者は皆無な親戚一同のあいだで、杏一郎の北大合格はビッグニュースとして瞬く間に伝播していった。三日後には、親戚はおろか、新聞に出した予備校の広告に名前が載ったことで地元の小学校中学校の同級生にまでもれなくその事実は拡散されており、近所から祝儀の封筒をもった人びとがまるで結婚式か葬式のように実家の店のまえに行列をつくるまでに相成った。そんな過剰なお祝いムードのなかで、ただ一人とうの本人だけがこの世の終わりのような絶望的仏頂面をしていたのだから、訪れた人びとはみなどういうことかと不思議に思ったのだった。
(この、糞田舎の中卒百姓のバカどもめが。たかが北大に受かったくれえで、おおげさにわめきやがって。てめえらみてえなまるっきり学のねえ糞低能には一生わかんねえだろうが、おれにとっちゃあ、一年も必死こいて机にしがみついていりゃあ、北大くれえ左手で受かってあたりまえなんだよ。それをまるで、総理大臣にでもなったみてえに村をあげてどんちゃん騒ぎまでしやがって。なにが祝儀だ、ふざけんじゃねえぞ糞どもが。そもそも、予備校のあの糞担任、なにがこのままいけば受かるだ、無責任なことまくしたてやがって。馬鹿正直にてめえの言う通りやったって、結局はしっかりこけてんじゃねえか、適当言うのもたいがいにしろよ。それに、なんだあの電話は。「合格おめでとう、パーティーやるから、みんなといっしょにお祝いしようよ」だあ? 冗談も休み休み言え、糞ボケが。あんだけ東大東大いいふらして、カッコつけんのもやめてみっともなく一年も勉強して、それで二次試験にも行けなかったおれが、どのツラさげてあいつらに会えると思ってんだよ。ちょっと頭、足りねえんじゃねえのか? 新聞だってそうだ。あれのおかげで、こうして毎日おめでたい糞どもが来やがるし、電話だってひっきりなしにかかってきやがる。おれは北大じゃ恥ずかしいから名前は載せるなっつったのに、あの糞ボケ、一番北の大学だからって、東大よりも上にどかんと載せやがって。だったら北大じゃなくて北見工業大を一番上に載せろってんだよ、馬鹿が。日本語通じねえのかよ、あの糞みてえなガキは)
 世紀末の仏頂面から、お客から祝儀を受け取るときだけは、表面上だけでもにこやかな笑顔をとりつくろうと無理に顔の筋を歪めながら、その煮え立つ腹のなかで、杏一郎は絶えずこんな醜い呪詛を吐き出していた。
 そんなふうにやりきれない気持ちを抱いたまま仕方なしに入学した北大で、気持ちよく学業に身を入れることができないのは杏一郎にしてみれば当然のことだった。どこにいても、ここはおれがいるべき場所じゃない、というような気がしたし、何をしていても、おれはこんなことをするために生きてるんじゃない、というような気がした。しかし、杏一郎の内的志向とは裏腹に、彼は北大で学年の下から七番目であるというのが確固たる、動かしようのない現実であった。彼が見下していた北大の学生は、そのほとんどが才能でも要領の良さでも勉強量でも彼をはるかに凌いでいたのである。杏一郎には東大どころか、北大ですらふさわしい場所とはいえなかった。あるいは両親と同じような地方の四流大学でなら、多少は幅を利かせる余地もあったのかもしれないが……

 北大の最底辺に落ち着いた杏一郎は、四年時の研究室ドラフトでも、やはり最後の最後に余った席を受け入れるしかなかった。その○○研は、教授のあまりの人格破綻っぷりと、研究の難易度の高さのために、あらゆる学生が積極的に敬遠していた研究室であった。とはいえ、背に腹は代えられない。杏一郎は甘んじてその境遇を受け入れることにした。案外、狂人と呼ばれるその教授とも、変わり者の自分なら馬が合うかもしれぬ。そうなれば教授と親密になり、うまいこと卒業研究の単位を融通してもらい、なんとか無事卒業にこぎつける可能性も出てくるかもしれぬ。と、彼にしてはめずらしくポジティブな想像をふくらませてもみた。
 しかし、ドラフトの翌日、杏一郎あてに教務から一通のメールが届き、開封してみれば、杏一郎の学業成績をあらためた○○研のK教授が、あろうことか研究室への受け入れを拒否しているとの旨が記されていたのである。
 杏一郎は憤慨したが、研究室に受け入れる学生の選別は、各教授にまったく一任されているため、怒ってみてもどうしようもない。もっとも、人種国籍等の理不尽な理由ならともかく、杏一郎のようにさしたる理由もなく二回も留年を重ね、おまけに出席日数の総数が五年間で百八十日にも満たないというふざけた実績をぶら下げた学生を大事な研究活動のメンバーに選びたくないというのは、教授からしてみれば至極まっとうな判断であった。
 そうなれば、杏一郎の取る道はただ一つ、すでに定員を確保した研究室を、教授の人柄が温厚な順にひとつひとつ訪ねてまわり、必死に頭をさげて、なんとか卒業研究まで面倒をみてはくれまいかと頼み込むしかなかった。
 この地獄の行脚を迫られて杏一郎は過度の恥辱と不安のためにいよいよいやな寒気をおぼえるにいたり、これからノックしなければならぬ研究室の固い扉をまえにしてブルブルとみっともない身震いすらしていたが、地獄にも仏とはこのことか、なんと渚の先輩の伝手を頼って最初に紹介してもらった低温研のM教授が杏一郎の涙ながらの訴えにひどく同情を寄せ、一計を案じてくれたのだった。
 というのも、M教授の研究室ではどうしても杏一郎を正式に受け入れるということはできないが、研究室に通う許可を与えることはできるらしかった。単位のほうは、M教授では認定できないから、M教授のほうから事情をK教授に話して説得してくれた。はやい話が、「彼の面倒は私のほうで卒業までみますから、K先生の研究室には形式上どうにか名前だけを置かせてもらって、来年の春には私の代わりに、卒業研究発表が終わったあとにハンコだけ押してくださいませんか」という内容のことを時間をとって説得し、ついにはあの頑冥たるK教授にその約束を取り付け、教務のほうの手続きにいたるまですべてを肩代わりしてくれたのである。
 このときほど、杏一郎が他人に心から感謝したことはなかった。(これまで周囲の期待を裏切ってきたおれだが、どうしてもこのM教授だけは裏切れない。こんな善良の象徴みたいな、それにひじょうな恩のある人を裏切ってしまったら、それはもう血の通った人間とはいえないじゃないか。よし、いよいよおれは心を改めるぞ。この一年間だけは、予備校のときのように学業に集中して、結果を出し、来年の春にはまわりがあっと驚くような立派な論文を書いて、どうどうと北大を卒業してやろうじゃないか)そんなふうに、心底に情熱をみなぎらせ、決意を固めたのである。
 かくしてなんとか低温研にもぐりこんだ杏一郎であったが、同期の学生であった熊谷と宇野は、あからさまに杏一郎を邪魔者を見るような眼でみていた。それもそのはず、低温研というのは、研究内容のおもしろさや充実度だけでなく、ボスであるM教授の温厚な人柄と丁寧な指導の評判のために学科内でも五指に入るほど高い人気を誇っている研究室であり、本来ここで卒業研究をみてもらうためにはそれなりの成績を三年時までに維持し、ドラフトに勝つ必要があったのである。当然、ここにいる熊谷や宇野も、学科のなかでは上位に入る優秀な成績をたゆまぬ努力で維持できているから晴れてここに受け入れられたのであり、逆に彼らほどではないにせよまずまずの成績をおさめていたにもかかわらず、涙をのんで低温研をあきらめ、他の研究室を選ばざるを得なかった者も少なからず存在するのである。それ故に、杏一郎のような、人気最底辺の○○研究室ですら所属を拒まれて露頭に迷った末、M教授の仏のような寛大さに甘えて泣き落としで入り込んできた闖入者は、彼らからあたたかく歓迎されるはずもなかったのである。
 ただ、そんな事情を知らない大学院生たちは、誰よりもまじめに研究室に通う姿勢をみせていた杏一郎をむしろ好意的にみていたらしかった。なかでも、M教授の裁量によって杏一郎の卒業研究指導を担当することになった修士二年の飯田は、なにかと杏一郎の動向を気にかけて、研究に使う器具の基本的な使い方から、物質調合の手順、特性の評価の仕方、データ解析用の特殊なソフトの操作、海外の論文の探し方にいたるまで、およそ卒業研究に必要ないっさいの知識を手取り足取り丁寧に教え込んで、一日でもはやく杏一郎が独力で研究を進められるようになるべく最善を尽くしてくれたのだった。
 杏一郎もはじめは、やや無口なきらいはあるが性格は明るく、背も高く顔もハンサムで、なにより自分の意欲を買ってくれて懇切丁寧な指導に朝晩心を砕いてくれている飯田に理想の先輩像というものを見出し、この人に一生ついていこう、とすら思っていた。ところが、彼が想像もしていなかったことがきっかけとなり、飯田との関係はとつぜん悪化の一途を辿ることになったのである。

 事の発端は、杏一郎が心を入れ替えてまじめに研究通いをはじめてから二週間ばかり経ち、おおよそ基本的な実験の準備くらいは一人で任されるようになってきた頃の、昼食休憩の時間だった。
 その日はじめて、杏一郎は飯田にいっしょに学食に行かないかと誘われた。
(これはどうやら、飯田さんがおごってくれる見込みがかなりありそうだ)
 後輩のまえでは豪快な金銭感覚を過剰に演出してみせるものの、根は商人特有のケチ根性に染まっている杏一郎は、そんな期待を半分抱きつつ、半分は純粋に、尊敬する先輩である飯田との仲が、いよいよともに飯を食らうまでに深まってきたかという嬉しさに、一も二もなく学食行きの誘いを承諾した。
「岩崎くんは、就活とかしてる?」
 紙のようにうすっぺらなかつがのっかった貧相なかつ丼を食いながら、飯田はありふれた話題を振ってみたつもりだったのだろう。ところが、杏一郎はついこの瞬間まで、就職活動なんて概念は、まるで頭から抜け落ちていたもんだから、つい狼狽して嘘をついてしまった。
「いや、まだしてないっす。これからやろうかと、思ってました」
「ええ、でも院進するつもりはないんでしょ? もう四月も終わりなんだから、ほとんどの人は、就職先、内定もらってると思うよ」
 杏一郎は、そんなことはまるで初耳だった。
「まじっすか。さすがにほとんどってのは、言いすぎじゃないすか」
「まあ、ほとんどってのは、たしかに言いすぎかもな。でも、内定はまだにしろ、インターンに行ったり、面接を受けたり、何かしらのアクションは起こしてると思うよ。もし本当にまだ何も手をつけてないんだったら、けっこうやばいんじゃないかなあ。それに物理は、九割近い人が院進するから、学部卒の人の就職はそんなに熱心にみてくれないしね」
インターンってのはなんすか」
インターンってのは、希望の会社にじっさいに訪問してみて、一週間くらい、働いてみる制度だよ。同級生でもけっこうやってる人いたんじゃない?」
「ああ、そういえばいたっすね」
 とっさににごまかしてみた杏一郎だったが、インターンなんて単語は生まれてはじめて聞いたのだった。ふつうは特に自分から求めなくても、そういう情報は友人づてにどこからか流れてくるのをキャッチするものだが、杏一郎は過去に焼き畑農業的な人間関係のリセットを幾度も繰り返してきたために、渚も卒業して出ていったいま、そういうことを教えてくれる友人がまわりにほとんど残っていなかった。
 しかし、インターンというのは、聞く限りではアルバイトの延長のようなことをやって、あわよくば一流企業の内定も取れる、なんだかうまい話のように思えた。ふいに興味がわいてきた杏一郎は、
「そのインターンっつうのは、どんくらい給料が出るんすか」
 と飯田に訊ねてみたが、
「いやいや、ふつう給料なんか出ないよ。あくまで就活の一環として行くんだからね」
 との答えが返ってきて拍子抜けし、(ちぇっ、なんでえ。一円の給料も出ねえっつうのに、いったいどこの物好きの馬鹿がわざわざ一週間も働いてやるっつうんだよ。あーあ、まったく聞いて損したぜ)と心のなかで悪態をついた。
「ところで、先輩は就活してんすか」
 飯田は博士課程に進むつもりがあるのかどうなのか、就職するなら会社はもう決まっているのか、そのあたりのことが気になった杏一郎が何気なくこんな質問をぶつけてみると、
「ああ、おれはもうT社から内定をもらってるから、入社することに決めたよ」
 とこともなげに言ってのける。T社といえば、世間に疎い杏一郎でも名前を知っている一流企業である。
「T社とは、さすが飯田さんっすね」
 と、感心した杏一郎が、思わず皮肉のないまったくの尊敬の念から出た誉め言葉を述べると、
「よせよ。運がよかっただけだって。たまたま去年出た学会に、T社の人が来てたらしくてな。発表が終わってからメールと電話でやり取りして、役員との面接だけで首尾よく入れてもらったんだよ。代わりに内定が出たら、確実に入社するっていう約束でな。おれも悩んだけど、やっぱりアカデミアに進むのは向いてないと思ったし、何より就職は年齢を重ねるほど不利になるからな。かならずしも、博士に進めばいいってもんじゃあないんだよ。おれもう二十三だし、ここらでちゃんと手に職つけて、安定した環境で生きていけるようにしないとな」
 途中まではニコニコと笑いながら飯田の言葉に耳を傾けていた杏一郎の顔が、話の最後になってにわかに曇り出した。
「え……飯田さんって、二十三なんすか」
「ああ、そうだよ。九十六年生まれだからな。なんで? 老けて見える?」
 それまで二週間もの時間をかけて、じっくりと養ってきたはずの飯田への尊敬と憧れの念が、まさにこの瞬間、杏一郎のなかで跡形もなく吹っ飛んだ。
(なんだよ、こいつ、さんざん偉そうな口叩きやがって、おれの妹と同い年じゃねえか。てことはなんだ、このガキ、おれが高一だったとき、まだ中坊のハナタレだったんじゃねえか。おいおい、今までの先輩ヅラはいったいなんだったんだよ。なんの権利があって、一個歳上のおれさまに向かって、岩崎くんだの、キミだの生意気な呼び方してたんだよ。中坊の糞ガキが、歳上に敬語を使いましょう、ってあたりまえのことを、こいつの通ってたどこぞの糞田舎の坊ちゃん中学では誰も教えてくんなかったのかねえ。あーあ、あんまり馬鹿らしくって、このガキに対する尊敬も何も、ぜんぶきれいに吹っ飛んじまった。よし、こいつのことは金輪際、内心ではハナタレの糞ガキと呼ぶことにして、いっさい敬語なんてのは抜きにしちまおう。逆に、おれに対しては敬語で話しかけてくんねえ限り、いっさい返事なんてのは返さねえことに決めちまおう)
 心のうちでひそかにそんな決意を固めてしまった杏一郎は、眼のまえにあるかつ丼をかきこむようにしてあっというまに平らげてしまうと、おごってもらったことに対するお礼の一言も口にしないまま、
「じゃ、おれ行くんで」
 とだけ告げて、後輩の態度が急変した理由がまるで飲み込めず、あんぐりと口をあけている飯田を置き去りにしたまま、その日はかばんも研究室に置きっぱなし、アパートに帰って寝てしまった。

 それからというもの、杏一郎は尊敬していた飯田が実は歳下のハナタレ糞ガキだったということを思い出すたびに胸がむかむかするようになり、研究室や実験室で飯田と顔を合わせても、ろくに口をきこうともせず、飯田がこれまで通り懇切丁寧な指導を試みても、(ハナタレの糞ガキに、何を教わることがある)というふうに自分が歳上であることのプライドが邪魔をして、杏一郎のほうはまるで聞く耳をもたず、コミュニケーションの停滞は日に日に実験のほうにも影響してきて、ついに飯田は杏一郎に対していっさいのアドバイスを打ち切りことを余儀なくされたのだった。
 そうなると、杏一郎は一人で卒業研究のための実験を進めざるを得ないわけだが、飯田のサポートがなくなったいま、知識も技術もまるで足りていない半人前の杏一郎だけでは、どんな実験をしてどんな結果を得るべきか、その方針すらもわからない。それでも二週間くらいは闇雲に実験を繰り返し、なんとか作り上げた月末のレポートで研究室の定例会に臨んだが、ほかの院生から絶えず指導を受けている熊谷や宇野の上等なレポートと比較すると、杏一郎のそれはあまりにも稚拙に過ぎ、院生や助教授からの轟轟たる非難に晒され、「もうすこしまじめにやってくれないと、ちょっと卒業研究の単位はあげられないよ」などと進退に関わる脅し文句まで飛び出してくるありさま。こうなると、頼みの綱は仏のM教授の他にはいないが、いくら寛大なるM教授でも、さすがに杏一郎のあまりに素人然とした、やる気の感じられないレポートの内容を擁護することはできず、さらには飯田が指導を放擲した理由も本人から聞いて仔細に把握しているがために、人情として杏一郎を庇うという方向にも踏み切れず、困ったような表情のまま、終始腕を組んで「ウーン……ウーン……」とうなっているばかりであった。
 この定例会の惨事が決定的な打撃となり、とうとう杏一郎は研究室に寄り付かなくなってしまった。ときどきM教授から電話がかかってくるたびに、怒られるわけではないと知りながらも、「スミマセン、ちょっとだけ体調を崩してて……明日にはきっと、顔を出しますから」だとか、「どうしても外せない用事が立て込んでて……いえ、体調は大丈夫ですから、明後日にはきっと、研究室に行きます」などと、その場しのぎの言い訳をくりかえし、いよいよ言い訳のネタも尽きてくると、お得意の番号着信拒否・アンド・電子レンジ・インをかまして布団にもぐりこみ、つい二月まえに固く報恩を誓ったばかりのM教授の顔に、これ以上はない無様な形で泥を塗ることに相成ったのである。

 そんな形で研究室を去ったはずの杏一郎が再びその扉を叩いたのは、翌年の二月、卒業研究発表会の本番まではいよいよ三週間を切り、どの研究室でも最後の論文の追い込みに熱をあげている時期の真っ只中であった。
「どうにか、卒業させてもらうことはできないでしょうか」
 あんな無礼な形で自ら連絡を絶ち、不登校をきめこんでいた杏一郎が、恥も外聞もなく、再びM教授の仏にすがろうとしていた。
 さすがのM教授も、これには驚き、一瞬は腸が煮えくり返る思いだったろうが、その一瞬あとにはある意味感心していたのだろう。眼を丸くして、まずは椅子に腰掛けるよう、不義理な教え子に勧めた。長い指導生活のなかでも、名門として知られる低温研で、これほどの醜態をさらしてくる学生は至極稀であるに相違なかった。
 M教授はすぐに飯田を実験室から呼び出して、三人で相談をはじめた。これまで八か月超にわたって研究室に来なかった杏一郎が、わずか三週間で一年ぶんに相当する内容の実験を行い、その後に控えた発表を乗り切り、おまけに原稿用紙百枚相当の論文まで仕上げるというのは、どう考えても無理のある話だった。
「無理を承知で、なんとかならないでしょうか」
 杏一郎にはなんとしても卒業しなければならない理由があった。S社の内定が出ていたのである。

 身勝手な理由でふてくされたまま研究室から去った杏一郎は、あれから夏のあいだ、呉のアパートに住んでいた渚のもとに身を寄せていた。そうして、飯田がじつは歳下のハナタレ小僧であったこと、それにタメ口をきかれたことにむかっ腹が立って研究室から去ってしまった話などをおもしろおかしくした後に、渚からこれからどうするつもりなのかと聞かれると、
「まあ、ラジオ局の夜勤もしばらくは雇ってもらえそうだし、雀荘のメンバーもフルで入ればそれなりの収入にはなるから、当分それをあてに暮らしていくよ」
 などとその場の思いつきで答えてみると、公務員になり社会の厳しさを身をもって知った渚は、
「そんなんで生きていけるわけないでしょ。たのむから、ちゃんと大学だけは卒業して。それに、就活はもう諦めたって言ってたけど、探せばまだ全然求人は残ってるから。いまからでも探して内定とって、ちゃんと学校に通って卒業して、自分の生活を自分で守って」
 と、至極まっとうな観点から説得を行い、杏一郎が渚の真剣な眼差しに心を打たれて束の間その気になったのを幸いと、ただちに杏一郎の履歴書等、求人への応募に必要ないっさいの準備を整え、求人サイトで検索した、まだ新卒の募集を行っている優良そうな企業に片っ端から勝手に応募をはじめたのである。
 そうして、予期せぬ形で遅ればせながらの就職活動に巻き込まれた杏一郎ではあったが、やはり北大の名前は強く、思いもかけぬことに応募した六社のうち四社もの企業が杏一郎との面接を望み、受けてみればなんと二社が最終選考にまで残った。
 その二社の最終面接の場で杏一郎は、父親譲りの得意の弁舌をふるって虚実がないまぜのエピソード・トークを披露して面接官を魅了し、技術者としての素養を求められれば、わずかばかり出席した授業で聞きかじった物理の専門的な薀蓄の数々を記憶の底から引っ張り出してみごとに演説してのけた。かくして二社の面接官は杏一郎という男の本質をみごとなまでに見誤り、数日後には、甲乙つけがたい一流企業・S社とH社からの内定通知を獲得する次第となったのである。
 就職活動が思いのほかうまくいき、複数の一流企業からポテンシャルを評価された気になった杏一郎は、再びあの傲岸不遜な顔を取り戻して、
(なんだ、やっぱり一流企業の社員みたいな本物の優れた人からみれば、おれって才能に溢れた、前途ある若者なんじゃねえか。ちくしょう、大学のやつらめ、同期のガキどもも、あの飯田とかいうハナタレの糞ガキ小僧も、院生のやつらも、みんなみんなおれのことをボロクソに扱いやがって。いまに見てやがれ。てめえらみてえな机にかじりついてお勉強するしか能のねえガリ勉どもとちがって、おれには社会で活躍するための、コミュニケーションと世渡りの素質が生まれながらにしてしっかり備わってんだよ。てめえら低能のイモムシ野郎どもは、せいぜいこの狭いお勉強の世界でだけ、井の中の蛙でいやがれ。数年もすれば、おれがてめえら屑どもを、まとめてアゴでこき使ってやるからよ)
 などと心中にうそぶいてみた。
 が、ここにきて、内定を承諾したS社に提出したところの、「来年三月末、大学卒業見込み」という文言が、にわかに杏一郎の心臓を締め上げてきた。
 当然、卒業しなければ内定は取り消しとなる。しかし、今のままでは、到底卒業できる見込みなどない……このジレンマに苦しんだ杏一郎は、まるまる二か月もの間、いかにして不義理をはたらいたM教授と飯田に頭を下げ、研究のサポートと単位の捻出を依頼するべきかということを朝から晩まで考えながら過ごし、発表まで三週間を切ったいま、やはりせっかうもらった内定をみすみす捨てることはできない、という商人のケチ根性由来の物惜しさが、M教授と飯田に今さら顔を合わせることの恥辱にすんでのところで勝利して、いよいよ重い腰をあげて、鉄のように固く閉じた研究室の門を叩くことになったのだった。

 三人の議論には、やがて助教授のY先生までが加わり、小一時間の検討を経た後に、いちおうの結論が絞り出された。
 すなわち、杏一郎を今春卒業させるにあたって、乗り越えなければならない課題は三つある。一つは実験データを用意すること、一つは合格点をとれる発表をすること、一つは論文を書き上げることである。しかし、たった三週間でこのすべてをクリアするというのは、物理的に不可能である。そこで、まずは最大の壁である論文を後回しにする、ということをM教授は提案した。通常、発表と同時に論文は提出しなければならないが、今回だけは特例として、論文は発表後の提出とするよう、K教授にかけあってみる。これは、K教授としても形式上とはいえ門下にある杏一郎が卒業できないというのはまずいので、事後の提出さえ固く誓えば、まず間違いなく了承してくれるだろう。そして、最も時間を要する実験だが、これは飯田が、杏一郎が去ってからの八か月間、一人でコツコツと積み重ねてきた実験のデータを、半分わけてもらうことにする。つまり、これから新しい実験をするのではなく、すでに飯田が行った実験を、名目上は杏一郎の協力のもとに実施したということにして、杏一郎の発表と論文のネタにしてしまう。
 K教授が飯田にこの方法を打診したとき、飯田は明確に汚物をみるような眼で杏一郎をながめた。無論、飯田からすれば、自分が苦労してコツコツ集めた実験のデータを、途中で研究を放棄して、遊んで寝てばかりいた杏一郎に譲ってやる義理などこれっぽっちもありはしない。が、飯田は根があまりにも善良であるために、この無茶苦茶な願いをとうとう聞き入れてしまった。
「わかりました。その代わり、論文はおれ、面倒みれませんから。なんとしてでも岩崎くん一人で、書いてもらいます」
 杏一郎は飯田のこの言葉を聞くなり歓喜して、
「ありがとうございます。ありがとうございます。論文はかならず独力で仕上げます。飯田さんには、もう、これっきり迷惑はおかけしません。ほんとうに、これっきりにするとお約束します」
 と、いつかの軽蔑はどこへやら、歳下のハナタレ糞ガキ小僧と見下していた飯田へ向けて深々と首を垂れ、大仰な感謝の言葉を並べ立てたのだった。
 その日はいったんそれで解散となり、翌日からデータの整理と発表の準備に専念するため、かならず毎朝研究室に通うことを約束した杏一郎は、暗闇に活路を見出したことのあまりの嬉しさに、いきつけのレストランにいって大枚をはたき、ヒレステーキを二枚も豪快に平らげ、アパートでは客人のために未開封で保存しておいたとっておきの酒を惜しげもなく開封して深夜までひとり酌を傾けていた。
 それからの三週間、杏一郎はいやいやながらも自らに鞭打って研究室に通いとおした。本番の発表では飯田の実験データをあたかも我が物のように取り扱ってお得意のなめらかな弁舌を披露したため、最前列で聞いていた飯田はさぞかし業腹だっただろうが、なんとか質疑応答も無事に乗り切り、論文もM教授のはからいで提出済みという扱いになっているので、杏一郎本人とて学部の掲示板でその番号をしかと眼にするまではまだハラハラ不安を抱いてはいたものの、三日後、晴れて彼の学籍番号は卒業確定者のリストのなかに印刷されてどうどうと張り出され、六年間も寄生していた大学から、ようやく大手を振って外に出ることができるようになったのである。
 さて、ようやく卒業が確定して、雀荘のメンバー仲間やラジオ局のバイト仲間たちとそれぞれ卒業祝いの名目のもと酒宴をひらいてもらっている途中、杏一郎の頭には、あのM教授とK教授と飯田に固く約束した論文執筆の件がよぎっていた。
 無論、この段階で、論文など一文字たりとて書いてはいなかった。発表のためのデータ整理と資料作成だけで、三週間なぞあっというまに過ぎ去った。当初は(毎日少しずつても書いておけばあとでラクになるから)と論文の執筆時間も確保するつもりはあったのだが、現実はあまりに忙しく、疲労困憊して家に帰れば大飯を食らって酒を飲んで寝るしで、とてもじゃないが論文のことなど考える暇はなかったのである。
 そもそも論文などというのは卒業の間際になって書き始めるものではなく、熊谷も宇野も、もちろん飯田ら院生も当然そうであったわけだが、何か月も前から地道な執筆を重ねた上で、教授から細かい添削を受けて徐々に徐々に完成に近づけていくものなのである。
(よく考えたら、そんなシロモノを、三月末までのたった一か月ででかすなんて、どだい無理な話だよなあ。飯田のガキも、調子こいて、論文だけはいっさい手伝ねえとかぬかしやがるし。ふつう、逆だろうが。データの整理なんざ、馬鹿でも要領わかりゃあできんだよ。その点、論文なんておれは見たことも書いたこともねえんだから、それこそガッツリ、てめえにやってもらわねえと完成しないのはわかりきったことだろうが。それに、こちとら札幌から出てくんだから、引っ越しの用意だってあるし、こっちにいる間に、遊びに行きたいとこもあれば、食いたいもんもたくさんあるしなあ。いまからどんなに必死こいてやったって、せいぜい半分くらいの出来で泣く泣く提出するってのがオチよ。そんな糞みてえな落書き論文が、飯田のガキや、熊谷や宇野のたいそうご丁寧な論文と並んでみろよ。まちがいなく、後輩に笑いものにされちまう。そんな糞論文になることがわかりきってんだったら、いちおう単位はもらって卒業も確定してんだし、いまから汗かいて書く意味なんてまるっきしないんじゃないの)
 冷静になって考えれば考えるほど、心底では歳下のハナタレ糞タレ小僧と見下していた飯田に頭を下げてまで卒業を手伝ってもらったことが口惜しくもなってきて、最大のハードルだった卒業の確定はもう済んだことだし、M教授をまたもや裏切ることになるのは申し訳ないが、ここはいっちょう、特例で後回しにしてくれたのをいいことに、論文のことは忘れて札幌から飛び立とう、まさか、いくら怒り狂ったって、本州まで追いかけてくることもなかろう、と杏一郎は密かに決意を固め、再び研究室のメンバー全員の番号を着信拒否に設定し、携帯をレンジに投げ入れた。

 札幌を発つ前日、深夜の二時ごろに、杏一郎は無人の研究室の鍵をあけた。去年の春に配布されたこの合鍵を返しにきたわけだが、こんな無人の夜中にきたのは、単にM教授や飯田と鉢合わせたくないからというばかりでなく、ついでに片付けておきたいことがあったからだった。
 杏一郎は、いちおう研究室を一周してまったくの無人であることを確認すると、サンタクロースのように肩に抱えてきた白い袋から、空のスプレー缶、折れた傘、折れたモップの柄、古本屋で買い取りを拒否された汚い本、子ども向けのおもちゃの野球用品、安物の将棋盤、誰かからもらった海外の動物の置物、切れた単三電池、なにかの金属の棒、空瓶、エロ本などなどの、引っ越し作業の最終段階までしぶとく残り、処分に困ったゴミたちを次々と取り出して床に並べた。
 それから、研究室の使っていない机や、隅においてある箱などの中身をあらためては移し替えたりなどして整理して、生じた隙間にこれらの不要物をひとつひとつ慎重につめこんでいったのである。
 杏一郎は、これが純然たる迷惑行為にほかならぬということは認識していたが、別段、研究室に積極的に迷惑をかけようと思ったわけではなく、あまつさえ復讐をしようとか、そんなつもりも毛頭なかった。ただ単に、不要物の山を明日までにはすべて片付けなければならぬ状況で、路上に不法投棄するわけにもいかない以上、アパート以外で唯一自分が自由に立ち入れる部屋、つまりはこの研究室に置きに来るしかなかったのである。
 もしこれが、研究室から盗みをはたらくのであれば警察に突き出されても文句はいえないが、自分がやっているのはその真逆の行為である。つまり、たとえどうしようもない不用品であるとはいえ、いちおうモノを与えているわけであり、かつ、ふだんは見向きもされないような空き箱や空きデスクに詰めこんでいるのだから研究室の外観は変わらず、いつか誰かがこのゴミを処分することにはなるのだろうが、そんなゴミは現状この研究室のあちこちにあふれているのであり、その誰かとて、特別自分のことを恨んだりすることもなく、ため息交じりに掃除にとりかかるだけだろう、と、杏一郎は自分の迷惑行為の迷惑度合いを極限まで低く見積もるべく、己に向かってお得意の弁舌を弄していた。
 かくして一方的にゴミを押し付けた後に杏一郎は札幌を去り、心機一転、生まれ変わるつもりで、四日市での会社員生活をスタートさせたのである。

 そんな杏一郎が、どうしていま、S社の正社員の立場を自らかなぐり捨てて、東京の六畳間のアパートに引きこもって就職活動をしているのか。
 四日市での三年間の会社員生活は、杏一郎の人生のなかで、あの無邪気だった高校生活に次いで幸福なものだったといってよい。技術者としての仕事はラクではなかったが、月末にはまとまった給料がかならず振り込まれ、夏と冬にはたんまりとボーナスがもらえた。それに、札幌のアパートよりはずっと広くて設備も新しい借上げ社宅に住ませてもらっていて、家賃はわずか三割を天引きされるだけで済んでいたから、毎月金が有り余っていた。すくなくとも、就職してからの三年間、杏一郎は一度も食いたいものを我慢せず、欲しいものを値段のためには躊躇せず、着たい服を着て、何不自由ない生活を送ることができていた。それにS社は休みもひじょうに多く、杏一郎は年に二十四日も付与される有給休暇を百パーセント使い切り、あるときは友人と遠方に旅行に出かけたり、あるときは地元に二週間も帰省してダラダラと寝てばかりいたりと、やりたい放題に長期休暇を満喫していた。
 仕事のほうも、最初のほうこそ戸惑ったが、三年目となるとさすがに色々と専門的なことがわかってきて、大半の業務を独力でこなすことができるようになっていたし、周囲に頼られる機会も確実に増えていた。上司からの評価も上々で、特にB課長は杏一郎の度胸のよさと、口からでまかせを澱みなくつらつらと並べ立てる弁舌を高く買ってくれ、賞与の査定ではなんと上位五パーセントに入るほどの高評価を与え、さらに将来はプロジェクト・リーダーになってもらいたいなどと、いかにも彼の自尊心をくすぐるような打診まで行っていた。
 そんな、どこからどう見ても順風満帆にしか見えない杏一郎が、突如として退職の意向を告げたのは、一昨年の年末の賞与面談でのことだった。
 今期も上々の評価であることを告げた後に、今後のプロジェクト・リーダーとしての育成方針を丁寧に説明した直後であっただけに、B課長の驚きは相当なものだった。
 いかにもたしなめるような優しい口調で理由を話してみるようにと求められた杏一郎だったが、いつものようには口がなめらかに回らない。それもそのはず、彼の頭を退職の二文字が横切ったのはつい昨日のことで、その思いつきのような、いや、思いつきにほかならない言葉を、いま現実に、課長のまえで宣言しているのだから。
 しばしの沈黙を経たのちに、杏一郎は、いちおう筋が通るように、退職の理由を述べた。自分は、漫画を読むことが趣味で、休日を利用して、漫画を描いてもいる。そうして、まる二年かけて書いた漫画の原稿を、あるマイナーな出版社に持ち込んでみたところ、意外にも編集者から好意的な評価をもらい、ぜひうちで本にさせてください、との提案をもらった。これを機に、技術者としての仕事には見切りをつけて、漫画家として身を立てるために、貯金を切り崩しながら、朝から晩まで漫画にだけ専心する生活を送ってみたい。彼がB課長のまえで述べたのは、おおよそこんな理由だった。
「そうか、岩崎くんに、そんな立派な目標があったなんてねえ……これは、ひじょうに残念だけど、応援するしかないな。ただ、いきなり退職というのも、やっぱりもったいない気がするんだよね。それで、どうかな。もしよかったらだけど、休職という形にしてみては」
 B課長は、杏一郎に向けて、彼がそれまで知らなかった会社の制度の説明をはじめた。S社では、博士号を取得したり、何か有用な資格を取るために勉強したり、あるいは海外に語学留学をしたりすることを希望する場合に、最大一年の長期休職を認める制度がある。もちろんその間は給与は出ないが、一年間の休職期間が終わったときに、会社に戻ることができる。
「でも、ぼくの場合に、その制度が使えるんですか」
「それはこれから人事と話し合わなきゃいけないけど、たぶん大丈夫なんじゃないかな。なにせ、ほとんど使われた前例のない制度なんだよ。下手すると、岩崎くんが第一号になるかもしれない。とりあえず、名目上は資格試験の勉強ってことにして、具体的な資格の名前は、漫画の新人賞の名前でも書いておいたらいいんじゃないかな。それで、一年間漫画を描くことに専念しながら、ほんとうに退職するかどうかをじっくり考えてみたらいいよ」
 すでに会社を辞めるつもりでいた杏一郎はこの予想外の展開にいささか面食らったが、いちおう人事に確認してもらえるようB課長に頼んでみると、数日後、あっさりと杏一郎の長期休職は認可されてしまったのだった。
 かくして、あっというまにあらゆる手続きが進み、一か月後の一月半ばには、杏一郎は住み慣れた四日市から離れて、東京の調布の、六畳間のアパートで生活しはじめたのである。
 杏一郎が漫画家を目指して上京するという話は、瞬く間に同僚の間に広がって、いくつもの送別会が開かれ、ある者は杏一郎が近い将来漫画家として成功するのがもはや確定したことのようにみなして、「いまのうちにサインをくれ」などと頼んできた。
 そんなどんちゃん騒ぎの渦中にいて、杏一郎はなんだかバツの悪い思いをしていた。
 送別会となると、かならず誰かは杏一郎にその場で絵を描いてみせてくれと頼んでくるのを、「プロは無料《ただ》では描かないんだよ」などとそれらしい理由をつけて頑なに断り続けた杏一郎は、じつのところ、漫画など一度も描いたことがなかった。それどころか、人の顔の絵を描いたのは小学校の図工の、似顔絵の時間が最後で、そのとき、杏一郎の絵があまりに下手糞だったものだから、彼に似顔絵を描かれた隣の席の女の子は泣き出してしまい、「杏一郎くんはわざとブサイクにナナちゃんの似顔絵を描きました」といういわれもない罪をかぶせられ、担任のげんこつを食らうはめになって以来、おれは絵などは一生描くものかと固く誓ってすらいたのだった。
 誰もいないアパートの部屋で机のまえに座って、杏一郎は苦笑した。いまごろ会社では、人事の担当社員が、杏一郎が漫画の賞をとることを目指して休職している、という旨の書類をせっせと作成していることだろう。でも、そんなのは嘘だったのだ。確かに杏一郎は漫画を読むことが好きだったが、何という道具を使って、どうやって描くのかなんてことは露ほども知らなかった。
 漫画を描きたい、漫画家になりたい、なんてのは、一刻もはやく、あの会社からおさらばするために吐いた、苦し紛れの嘘にすぎなかった。B課長との面談で、あたかも考えていた台本を読み上げるように、杏一郎の口からは一連の大嘘が流れ出たのである。あまりにも突然に、あまりにももっともらしく、あまりにもなめらかにその嘘は流れ出たものだから、杏一郎本人でさえ、それが自分のしゃべっている言葉だとはとても信じられず、あるいはB課長以上に聞く側の意識でもってその言葉の意味をとらえていたから、その内容のあまりの荒唐無稽さに、笑いをこらえるのがやっとだった。
(あーあ、課長もまったくお人好しだよな。あんなくだらねえ嘘をすぐに受け入れてくれちゃって……それに、おれみてえな正真正銘の屑にいい評価をつけてみたり、あまつさえ、将来はプロジェクト・リーダーにしたいなんて、ちょっと、人の外っツラの、お行儀のいいとこばっかり信用しすぎだよ。まあ、こんな糞の屑人間でも、やっぱりまわりのやつらよりは、多少は頭が切れんだろうな。じっさい、仕事は楽しかったし、結果も出てたしよ。外っツラだけ見るぶんには、確かに課長の言う通り、おれは期待できる若手社員、ってやつだったのかもな。でも、三年間堪えてはみたけど、おれはどうしてもだめだったな。とにかく、あのいい会社から逃げ出したくて、しょうがねえんだ。こんなこと、課長に話したって、理解してもらえるわけねえもんな。あんなふうに、仕事がうまくいって、偉い人に褒められて、給料も使い切れねえだけもらって、休みもたくさんある会社、そうはねえだろう。おまけに同僚にもパイセンにも、いやなやつは一人もいねえと来てやがる。あの糞田舎の糞みてえな中学と比べると、まったく天国みてえなとこだよな、ホント。あのとき、呉の島で、渚のおかげで勝手に進められた就活で、ほとんど成り行きで入った会社でこんなにいい思いができるなんて、今度の今度だけは、おれは抜群に運がよかったにちげえねえな。でも、それじゃだめだったんだ。やっぱり、おれはどっかおかしいんだよ。いい会社で幸福にはたらいてる自分っていうのが、いやでいやでしょうがねえ。なんか、うまく言えねえけど、そういうのってすげえ馬鹿みてえじゃねえか。ほかの連中がはたらいてるぶんには、あんなに羨ましいと思ってた一流企業ってやつに、いざ自分が入って、しかも仕事までうまくいったってのに、そんな自分がどうしようもなく馬鹿に思えて仕方ねえんだ。みんなが賢いなかで、おれだけが馬鹿みてえだ。どんなに褒められたって、どんなに金をもらったって、どんなに休みがあったって、そんな糞みてえな馬鹿が自分だって認めんのは、おれはぜったいにいやだったんだ。だから、逃げるようにして、尻尾まいて、あんだけ世話んなった課長に口からでまかせのくだらねえ糞の大噓まで吐いて、全員の期待を裏切って東京に逃げてきたんだ)
 そんなことを心中に呟きながら、杏一郎の一年間は無為無策のまま過ぎていった。貯金は引っ越し代やアパートの初期費用を払ったあとでも二百七十万円くらいは残っていたから、当面のあいだ食うには困らなかった。が、休職制度を利用している以上、副業もできないため、時間をつぶしてついでに金も稼げるアルバイトができないのは有り余る時間のまえに立ち尽くしたような杏一郎にとってもっとも辛いことだった。
 杏一郎はなんの目的もなく、ただ毎日の時間を浪費していった。はたらいていた頃はあんなにあっというまだった一日が、残酷なほどながく感じられた。昼夜は頻りに逆転し、食事は日に四回も食うこともあれば、まったく何も口にしない日もあった。生活のあらゆる要素が無軌道になって、寄る辺もなく、ただ眼の前に果てしなく広がった時間をどうにかやり過ごすことにのみ腐心していた。
 起きている時間、杏一郎はアパートの部屋にこもっていることが多かったが、ただ天井を見上げているとおそろしく時間が経つのがおそいので、古本屋でまとめ買いしてきた文庫本を開いていることが多かった。それにも飽きると、ぶらりと散歩に出て、目的もなく多摩川のあたりなんかをうろついて、駅前の洋食屋でたらふく飯を食ってから、アパートに帰って眠りについた。夢を見ている時間だけ、自分は生きているような気がした。
 七月頃になると、アパートにいても外を歩いていても、あまりの暑さにうんざりするようになっていた。杏一郎の精神は限界を迎えつつあった。ここらで何か目的を持って生きなければ、いよいよ破滅してしまうような予感がしていた。
 そしてついに、(嘘から出た誠、という言葉もあるし)と軽い決意のもと、画材店に出かけ、漫画家セットなるものを一通り調べて購入し、生まれてから一度も描いたことのない漫画を、ほんとうに描きはじめた。題材は、図書館に通いつめて中唐の歴史を調べて、政治抗争のなかで翻弄された詩人の生涯を描くことにした。漫画を描くことは精神の一時的な栄養となり、無我夢中に取り組んでいる三か月の間、杏一郎は現実の苦しみを忘れることができた。が、素人の杏一郎がどれほど専心したところで、そもそも基礎的な技術がないのだから、まともな作品に仕上がるはずはなかった。それでも杏一郎は(万が一のことがあるかもしれない)と完成した原稿を有名な月刊誌の新人賞に送ってみたが、出版社からの連絡が来ることはついになかった。
 そうして何もないまま冬を過ぎて、春が近づいてくると、当初は無限のように感じられた貯金の残高も五十万円を切り、もしこのまま働かずに生活していたら、確実に数か月後には餓死に至るという現実が厳然として眼の前に立ち現れてきた。
 B課長からは、「どうしても退職するのか、いまなら戻ってきてもいいぞ、みんな岩崎くんを待ってるぞ」というような引き留め半分、心配が半分の内容の電話が何度もかかってきた。そのたびに杏一郎は退職する意志の固いことを告げ、漫画のほうの進捗を聞かれると、至極順調に執筆は進んでおり、去年だけで三本も読み切りを描き上げることができた、現在は最終候補に残った新人賞の選考待ちである、などと得意の弁舌で噓八百を並べたてて、いかにも自分が充実した生活を営んでいる、漫画家としての自立の夢を掴みかけている、といったような印象を与えて課長を安心させようとした。
 じっさい、杏一郎は憂鬱ではあったが、絶望はしていなかった。金がないなら、また働けばいい。学生のときだって、みんなよりだいぶ遅れて就活をはじめたけれども、一流企業から二つも内定をもぎとることができた。その成功体験があったから、このたびも杏一郎は、あえてギリギリまで就職活動を始めなかったのである。金をあまり余してももったいない、せっかくならちょうど使い切るころになって、サクッと次の職場を決めてしまおう。そんなふうに計画を練っていた。
 二月の半ば頃、貯金がいよいよ三十万円を切ると、四月頭から働くつもりで、杏一郎は新たな職場を探しはじめた。友人にやり方を聞いて転職サービスに登録し、担当者の紹介する求人に片っ端から履歴書を送っていった。
 転職サービスの担当者は、「三十件の求人を送れば、五件は面接、一件は内定というくらいの倍率です」と説明した。それを聞いた杏一郎は、
(へっ、礼儀も知らねえ糞ガキが、舐めんのも大概にしろよ。こちとら北大出て、新卒では六社しか受けてねえのに、四社は面接に進んで、二社は内定とってんだよ。てめえみてえな、三流大学出て、しょうもねえ会社でしょうもねえ仕事してる屑と同じレベルで考えるんじゃねえよ、馬鹿が)
 とでも毒づいてみたくなったが、ぐっと堪えて、(もし三十社応募して、一週間で三十個面接受けるハメになったら、どうすんだよ)とも思いながら、とりあえずは担当者の千葉という青年が紹介した、誰でも知っているような大企業から地球上の誰一人として聞いたこともないような地方の零細企業までをいちおうバランスよく一通り揃えたリストを参考に、手始めに三十社に履歴書と職務経歴書を送ってみたのだった。
 ところが、杏一郎の期待と不安に反して、なんと書類を送った三十社のうち、ただの一社とて杏一郎と面接をしようという会社はなかった。毎日のように千葉から送られてくる不採用通知に、杏一郎はいい加減うんざりしはじめ、ついにはなにか自分の人生のすべてを否定されているような気すらしてきた。
 焦りをおぼえた杏一郎は、まとめてまた三十社、また三十社とくりかえしの応募を続け、ついに不採用通知の数は百通の大台にのるまでになったが、そこまでして杏一郎と面接をしてもよいという会社は、どこの馬の骨ともわからぬ、得体の知れない地方の会社が三、四社ばかりであった。
 あまりにも想定外な状況に、杏一郎は千葉に対する不信を募らせていった。かの礼儀を知らぬ糞ガキが、技術者だった杏一郎にはあまりに難易度の高い、見当ちがいな求人ばかりを応募させるものだから、こうして自分は百社落ちの憂き目にあっているのではないか、という具合である。
 そんな中、ただ一社だけ、向こうから杏一郎にオファーのメールを送ってくれたのが、大阪にあるE社だった。この会社もS社と比べると鼻糞のように小さな会社だが、いちおう残業は少なく、給料も前職の六割くらいではあるがちゃんと出て、休みも多いといういかにも杏一郎好みで融通の利きそうな、一時的に腰かけるには適当な会社であった。杏一郎はこのメールを受け取るや否や、ただちに喜び勇んで面接の申し込みも行い、来る翌週、人事との一次面接に臨んだわけだが、その手応えも上々、面接のおわりには「岩崎さんには、最終面接に進んでいただきますね」との言質までとったにも関わらず、今朝、千葉の糞ガキが杏一郎に告げたのは、E社はすでに採用人数が定員に達したため選考を打ち切り、これをもって杏一郎は不採用と決定したという事の流れであった。

 あてもなく部屋の外に飛び出してきた杏一郎は、ひたすらに苛立っていた。最終面接の約束をまるっきり反故にされ、いつのまにか気持ちよく描いていた新天地・大阪での生活の青写真がまったくの空想、くだらぬ夢物語に終わってしまったこともその一因だったが、それ以上に杏一郎はどうしようもなく腹が減っていたのである。
 アパートの裏の通りにあるチェーンの弁当屋に立ち寄ると、杏一郎は牛焼肉弁当の特盛を一個あがない、その袋をぶら下げたまま、およそ一キロ半離れた多摩川までの道を歩きはじめた。
 いやになるくらい天気のいい日だった。強烈な陽の光が、ぎらぎらと脂ぎった音を立てながら平坦な家屋の屋根を焼いているようだった。
「ったく、まだ三月末だってのに、どうしてこんなにあちいのか」
 呟きながら民家に挟まれた道を黙々と曲がっていくと、急に視界がひらけて、多摩川の土手が眼前に横たわっていた。
 堤防の坂道を降りていくと白くて粗い砂の敷かれた道がある。その道に沿って橋のほうにむかって歩きながら、杏一郎はどこか座って弁当を食うことのできる場所を探していた。このあいだは、どこか石段があったからそこに腰を下ろして食ったはずだが、どうやらそんなものは見当たらない。
「あれはもっと右のほうの道だったか……」
 そうして歩いていくと、とうとう橋のたもとまで来てしまったので、諦めて橋の影のコンクリに腰を下ろして、弁当箱を開けることにする。
 弁当を食いながら、川のそばを通っていく人びとを眺めていると、その全員がきっと何か仕事を持っていて、つまりは世の中に必要とされているというのに、自分だけが仲間はずれなような気がしてきた。
(ガキの頃からずっと天才だの神童だのってもてはやされて、地元で一番の高校を出て、北大だって、まあちょっとズルはしたけど、いちおうなんとか卒業してよ、誰だって名前を知ってる、テレビでコマーシャルだってやってるS社で三年しっかり働いて、上位五パーセントなんて評価も何回も貰ってよ……パソコンだって使えるし、英語だってしゃべれるし、そんなおれを、欲しがらねえ会社なんて、あったら見てみてえもんだって思ってたけど、現実は、どこもおれを門前払いして、会って話そうとすらしやがらねえ。もしかしたらおれが知らねえだけで、この世にはおれより優秀なやつが、それこそ掃いて捨てるほどいるのかもしれねえが、おれより使えねえ低能だって、もっともっとわんさかアリの糞みてえにいるはずだ。でも、そいつらは自分が使えねえ屑だってことをとことんまで骨身にしみて理解してやがるから、一回手に入れた仕事を、そう簡単には手放しやがらねえ。そうなると、どんなに学力や経歴で勝っていても、長年の経験を積んでるそいつらをクビにしてまで、まるで経験のねえ素人のおれを雇うなんてことはどこの会社だってしたがらねえんだな。畜生、どいつもこいつも、どこまでも徹底的に節穴の糞野郎どもだな。てめえんとこの糞社員は、そんなに有能か。そいつら全員と比べたときに、ホントにおれは使えねえと思ってやがるのか。おれはよ、あんな糞田舎のケチな貧乏商人の家に生まれさえしなけりゃよ、当然のように東大を出て、今頃は官僚か社長にでもなってた人間なんだよ。それがどういう因果か、あんな知性の欠片もねえ親父のもとに生まれちまって、ガキのころから下手にチヤホヤされちまったもんだから、勤勉に育つもんも育たねえで、せっかくの才能を腐らせちまった。現に、ヤッツは今じゃあ博士になって馬鹿でけえ会社で死ぬほど給料もらって研究してやがるって噂だし、ナッちゃんも医学部をストレートで卒業して医者になりやがった。あいつらはおれに比べりゃあ鼻糞みてえな才能しかなかったくせに、親がちゃんとしてやがったから勤勉にしつけられて、結果ずっと得をしてやがる。まったく、おれはいったいどこまでついてねえんだ。金持ちの家とは言わねえ、せいぜい中の上くれえの、まともな家に生まれてさえいりゃあ、この才能をみすみす腐らせることもなく、こうして歳下の糞ガキどもに見下されながら、糞みてえな会社のやつらに頭を下げてまわることだってなかったはずなのによ……)
 E社から門前払いを食らったいま、杏一郎が食っていくためには、翌々日に控えた、学習塾の講師の最終選考に合格し、なんとしても内定を勝ち取る必要があった。もしもこれが不合格となったら、もはや直近で正社員の地位に就ける見込みはなく、このまま貯金を食いつぶして夏が来るころに餓死するしかなかった。
(それがいやなら、来週にでもどっか近所でアルバイトをはじめて、時給千何百円とかいう人をとことんまで馬鹿にしくさったような薄給で、ろくな教養もねえ糞ババア糞ジジイどもにこき使われるほか、道はねえ。でも、そうなるくれえなら潔く死んだほうがましだな)

 翌々日、久しぶりのスーツを身にまとった杏一郎は京王線明大前で井の頭線に乗り換えて、××駅の真ん前に趣味の悪い原色の看板を掲げて鎮座する、派手な学習塾の扉を叩いた。
 杏一郎を出迎えた、でっぷりと肥えて頭に汚いニット帽をかぶった中年男が、どうやら資料に載っていたこの個人塾の代表らしかった。
「こんにちは! このたび面接を受けさせて頂く、岩崎と申します」
 杏一郎はいつもの外っツラの礼儀正しさに加えて、とくに中高年に好意を持たれやすい明るいハイトーンに声の調子をあわせて挨拶をし、深々と頭を下げた。すると、代表らしい中年男は、
「あ、こんにちは。英語科を受けられる、岩崎くんね? まま、とりあえず、こっちの教室で待っててください」
 と、杏一郎を手前の空き教室に案内すると、それっきり姿を消してしまった。
 それから五分ほど待機していると、今度は代表よりはずっと若い、四十手前くらいの朝倉という教室長がやってきて、丁寧に挨拶をし、名刺を差し出した。杏一郎は名刺を持っていないから、交換という形にはならずただ礼をいって受け取った。S社で配布されたものは、会社を去るときに捨ててきてしまったのだ。
 朝倉の口から、今日の選考の流れが説明された。
「まずは、眼の前の黒板をつかって、一時間の模擬授業をやってもらいます。それから学力試験に移って、最後に適正検査。長丁場になりますが、どうぞよろしくお願いします」
 事前に連絡は来ていたから、模擬授業の準備は十分にしていた。杏一郎が提出した履歴書と授業の指導案を受け取ると、礼儀の正しい朝倉は教室の出口でさらに一礼して、
「では、三時から始めますから。準備をお願いしますね」
 とことわりを入れて去っていった。
 杏一郎は黒板の大きさと教室の広さをおおよそ把握すると、まずは黒板を縦に二等分する線を引き、それから左側の端に何種類かの大きさの文字を視力検査のように並べて書いた。それから、教室の一番左奥の生徒が座る席に歩いていくと、そこにかがんで、どの大きさの文字までなら明瞭に判読できるかを確認した。
 これは、大学の二年目に三か月だけやっていた塾講師のアルバイトのときからの習慣だった。杏一郎自身が視力の悪い生徒だったため、昔から字の小さい教師にはそれだけで悪印象をもっていたのだ。自分が教える側になったとき、そういったつまらないことで評価を下げられるのは嫌だったから、はじめて行く教室では、毎回必ずこの作業を通して文字を大きさを調整するようにしていた。
 まもなく、代表と、朝倉と、もう一人受付にいた背の低い女が教室に入ってきた。代表は女と並んで、やはり名刺を渡して挨拶を済ませると、
「こちらの女性は、高島さん。高島さんは、英語が比較的得意な生徒さんということで扱ってください。向こうに座った朝倉は、英語が苦手な生徒の役をしますから、そのつもりで当ててみてください。では、お願いします」
 なんだか芝居じみてきたな、けど、逆に生徒役として座ってもらったほうが、いかにも審査員、みたいに偉そうに構えられないぶん助かるかもしれない、と杏一郎は思った。
 そうして、三十分ばかり授業を進めると、キリのいいところで代表からストップがかかり、
「はい、もう結構です。では次は、学力検査ね」
 という具合に、テストに移るのだった。
 そして、テストが終わると今度は高島が答案を回収しに来た。
 ここまでの手応えは上々だった。もとが口だけをたよりに生きてきた杏一郎は、ほとんど素人ながら授業に関してだけはプロに負けないものを持っていると自負していたし、テストもせいぜいが高校入試程度のレベルで、まずこれで落とされることはないと断言できる難易度だった。
(なんだ、楽勝じゃねえか)
 あとは適正検査で、まあそれなりに嘘をついて無難な塾の先生を装っておけば、まず間違いなく採用、来月から食うのに困るというようなことは、とりあえずは心配しなくてよくなるのである。 
 また五分ほどが経過して、今度は代表が巨体を揺らしながら教室に入ってきて、杏一郎の眼のまえにどっかりと腰を下ろした。
 代表は適正検査の回答用紙を机に二枚並べて置くと、
「ちょっと、検査を受けてもらうまえに、いくつかお話を聞かせてもらいたいんですが、いいですか」
 といった。杏一郎は、たぶんこれが最終面接なんだろうと察し、
「はい、構いません」
 と答えた。
 代表はゆっくりと質問をはじめた。まずはありきたりな転職の理由をたずねるものだった。
「岩崎くんは、S社っていう立派な会社を、どうして辞めようと思ったのかな」
「履歴書にある通り、私は将来的には漫画家を目指しているため、どうしても漫画を描く時間が必要なんです。しかし、生活のためには、何か安定した仕事を持たなければなりません。その点で、S社という会社は給料はよかったのですが、時間外労働が多い月があり、休みも思うように取れず、漫画を描くための時間が確保できなかったのです」
 杏一郎の言葉には澱みがなかった。すべてが嘘なのだから、澱むはずがなかった。
「わかりました。では、どうして数ある職業のなかで、このたび、塾の先生を選んだのか、それを教えてくれますか」
「はい。それは、学生時代から今に至るまで、アルバイトも含めてさまざまな仕事を経験してきたなかで、もっとも夢中になれたのが塾講師だったからです。私自身、中学から高校にかけて、こうした塾で先生に勉強を教わっていたから自然と塾講師を尊敬するようになりましたし、なにより教えることが好きで、もしこれを仕事にできるならこれ以上の幸せはないと常日頃から感じているからです」
「塾のアルバイトをやってみて、特にうれしかったことはありますか」
「実は、私が担当していた教室には、一人だけ不登校の子が通っていたんです。あるとき授業アンケートにその子が書いてくれた言葉が今でも忘れられません。『私は学校には行きたくないけど、塾になら行ける』と書いてくれたんです」
 想定していた質問でもないのに、流れるように口から紡ぎ出されるなめらかな嘘に我ながら呆れて心底では笑いを堪えつつ、杏一郎は感慨に満ちたような表情を、わざとらしくならないようにほんの一瞬だけ過らせてみせ、すぐに真顔に皮膚を引き延ばして固定した。
 ここまでは、すべて杏一郎の思うがままに事は運ばれていた。ところが、代表は杏一郎の回答を最後まで聞き終えると、少しだけ何かを思い出すようなわざとらしい素振りをしてみせてから、ゆっくりと口を開き、こんなことを語り出した。
「ぼくが昔、まだ学生の講師だった頃の話なんだけどね。あるとき、三十九度の高熱が出て、たぶんインフルかなんかだったんだろうな。その日は講習が入ってたんだけど、教室長に電話して、今日は熱があるので出れません、って謝ったんだよ。そしたらさ、その教室長がね、這ってでも来い、って言ったんだ。這ってでも来い。お前の授業を待っている子どもたちがいるんだろ? だったら、這ってでも来いよ。もしいやなら、いつでも辞めていいぞ。そんなふうにね。その人は、今は子会社の社長にまでなってるんだけど、たぶん、ぼくが一生、この業界で食っていくってわかってたから、そういうことを言ったんじゃないかな。もし他の学生講師が相手だったら、たぶん、そんな無茶なことは言わなかったと思うよ」
 杏一郎は、静かな笑みを崩さない。ただじっと、代表の話に耳を傾けている。
「もちろん、この塾はぼくが代表をやってるわけだけど、社員のみなさんには、三十九度の熱があるのに這ってでも来い、なんて言いませんよ。風邪ならどうぞ休んでください。どうぞ休んでください、なんだけど……何て言ったらいいかな。たとえば、他の業種の会社なら、明日デートしたいから休みます、っていって有給休暇を取ることができる。いまの日本では、それが認められている。しかしね、この業界は、ちょっとちがうんだ。もし塾の先生が、風邪とかでもなく、そんな理由で休みを取ろうとしたら、どうなるか」
 杏一郎は、静かな笑みを崩さない。
「子どもたちは授業を待っている。じゃあ、誰が代わりに授業をするのか? みんな自分のコマを持っているから、当日に代講ってわけにはいかない。それに、そういうふざけた理由で仕事を休む大人をみて、子どもたちはどういうふうに思うだろうか? うちの塾の上のほうのクラスはね、東大とか行く子もいるわけよ。ぼくの教え子で、官僚になった子も、社長になった子も、たくさんいる。そういう子たちが、デートで休むような大人を手本にしたら、まちがったことを学んでしまう。塾がまちがっていると、学校もまちがって、会社もまちがって、国もまちがうなんてことになるかもしれない。ぼくたちの仕事は、未来の国をつくる仕事なんだよ。それだけの責任を背負って、子どもたちに並走しなきゃならない。じつは、コロナが流行ったとき、うちの講師は誰一人として、感染したって報告がなかったんです。あれだけ猛威をふるってたのに、だよ。そのとき、ぼくは、うちの講師たちのプロ意識を見たような気がしました。そういうプロ意識がある仲間じゃないと、ちょっとぼくたちは受け入れることができない。ちょっとこの業界では、やっていくことができない。けっして休むな、っていうわけじゃない。けど、国を作る仕事に対するプロ意識、これだけは持ってなきゃ、話にならない」
 杏一郎は、笑みを崩さない。
「岩崎くんは、見たところちょっと髪がロングだけれども、それはもしうちに来たら──?」
「切りますよ」
 杏一郎は笑みを保ちながら即答した。
「だって、塾の先生が長髪だと、なんだか胡散臭いじゃないですか」
 代表はうなずいた。
「いちおうね、うちの塾は、髪を染めることを禁止しています。もちろんぼくだって、髪を染めてるとか、ピアスをあけてるとか、そんなことで人格が否定されるべきだとは思わない。けれど、現実に、東京都の入試では、金髪もピアスも明確に不利になるんです。だったら、子どもたちを合格させることが仕事である以上、そのあたりのルールは徹底しなければならない。それを教える先生だって、だらしない恰好をしていてはならない」
「あのさあ」
 杏一郎の顔にはりついたような笑いが消えて、唇の隙間から言葉がもれた。その眼は追従の色を失った。その藍色の眼は、正面に座った肥った男を、まるで彼が人間ではなく、生き物ですらなく、あたかも醜い豚の化け物でもあるかのように見据えていた。
「もうそろそろありがたい説教も切り上げてほしいんすけどね、そのへんで」
 代表はあっけにとられていたが、ゆっくりと事態を把握するや否や、みるみる顔が紅潮してきて、一瞬の沈黙のあとに怒号が飛んだ。
「なんだ! その口の利き方は!」
「口の利き方がなってないのはてめえだろ、この糞ブタが」
 杏一郎は、この極限の状況下で、怯えるでもなく、怒りに震えるでもなく、後悔するでもなく、ただ、生まれてはじめての感覚に驚いていた。これまでは外部にあったはずの言葉が、生きた肉体と完全に一致したかのような奇妙な感覚に、ただただ驚いていた。模擬授業をやっていたときも、面接の問答のときも、課長に退職の理由を告げたときも、彼は自分の口から発せられた言葉を、まるで他人のもののように聞いていた。ところが、たったいま彼の内臓からマグマのように噴き出そうとしている言葉のかたまりは、まさに彼の所有する彼の言葉であり、もしかしたら彼の肉体そのものであるかもしれなかった。
「なにがルールを徹底しなければならない、だ。馬鹿じゃねえのか。糞みてえなブタがよ。だったらてめえのその薄汚え臭え帽子はなんなんだよ。いますぐそれを捨てやがれ、腐れハゲのブタが。そもそもよ、おれの髪が長えのと、ガキどもがパツキンにできねえのと、いったいなんの関係があんだよ。ガキどもだって、女は髪伸ばしてるじゃねえか。そりゃあパツキンは落っこちるに違えねえが、長髪は関係ねえだろうがよ。それに、ガキどもの手前だからうんぬんとかほざきやがる、てめえこそ酒もヤニもやってねえんだろうな。てめえは酒も飲む、ヤニもふかす、それでいてガキどもにはしっかりしつける。それが大人ってもんじゃねえのか。あのよ、死ぬほどあたりまえのことだけどよ、ガキはガキ、大人は大人なんだぜ。ガキはガキだから許されてることがあって、だめなこともある。なら、大人だって同じだろうがよ。おれが長髪だってパツキンだって許されてんのは、大人だからなんだよ。ガキと大人は違う、それくらいのことも教える能がねえくせに、いっぱしの教育者気取ってんじゃねえよ、チンカス親父が。さっきからてめえの話は、説教くせえだけならまだしも、ずっと酔っ払いの自慢話なんだよ。なにが三十九度だ。なにが這ってでも来い、だ。なにがデートがくだらねえ、だ。くだらねえのはてめえの自己陶酔のほうだろうが、このアル中糞親父。そんな無茶苦茶な話はよ、今時カスの美談にもなんねえんだよ。三十九度で出社させて、勝手に社員殺して一生家族に恨まれてろ、この無能が。そもそもこの業界がこの仕事がって、さっきから主語がでけえんだよ、てめえは。単にてめえんとこのしょうもねえ会社が糞ブラックってだけの話だろうが。他の会社まで巻き込んでんじゃねえ、糞ガキがよ。ようするに休むなってことだろうが。だいたいよ、コロナで誰も休みませんでしたって、馬鹿じゃねえのか。プロ意識とか恥ずかしげもなく語りくさって。あのよ、おめえんとこの律儀な社員はよ、おめえがそんなパワハラ糞無能経営者だから、コロナかかっても検査しねえで通勤してたに決まってるじゃねえか。そんだけ人数いてほんとに一人もかからなかったって、本気で信じてんなら、相当おめでたいぜ、てめえの糞の詰まった脳みそはよ。つーかよ、なにが国を作るだ、たかが塾講師風情が、調子に乗りやがって。あのよ、この際教えといてやるけどよ、てめえらなんてのはよ、いい歳こいてガキに算数教えるくれえしか能がねえ、社会の最底辺の糞無能集団なんだよ。それが、一流企業で最前線にいたおれさまの前で、言うに事欠いて国を作るだあ? 調子こくのも大概にしろよ。だいたい、東大いって官僚なった、社長なったなんてやつぁ、てめえら風情のことなんてこれっぽっちもおぼえてねえんだから心配すんな。だってそうだろ、なんでそんだけ賢いやつが、まだガキのてめえよりずっとずっと頭のわりい糞みてえな大人の影響なんか受けんだよ。そいつらはおめえらなんぞいなくても勝手に立派に育つし、おめえらごときがどんなに必死こいて悪影響与えようとしても屁とも思わねえやつらだからよ。それに、東大だの官僚だの社長だの、貧困育ちで低学歴のてめえらみてえな糞底辺には天上の世界だからそうやっていちいち自慢げに語るんだろうが、おれらみてえな本物のインテリにとっちゃあ、東大だって官僚だって社長だって、これまでに腐るほど見てきたんだからめずらしくもなんともねえんだよ、この貧乏オナニー糞ブタが。おい、糞ブタ。最後にこれだけは言っといてやるよ。てめえんとこの糞しょうもねえ糞会社のやつらが気の毒にも休みをとれねえのはな、プロ意識うんぬんの話じゃねえんだよ。まったく、てめえの議論は前提から糞だから結論も糞になりやがって、まるで救いようがねえ。あのよ、社員どもが自由に休みが取れねえのはよ、シンプルにてめえが呆れるほど糞低能で、基本的なマネジメントがまったくなってねえからなんだよ。代講依頼のシステムを整備するとか、スケジュールを緩和するとか、講師の人数を確保するとか、てめえはこれっぽっちでも本気でやろうとしたことがあんのか? そもそも、てめえだけは全教科講義ができるってアホみてえに威張り散らかしてんだったら、てめえだけは普段は講座を入れねえで、風邪とかデートのときのピンチヒッター専門でやりゃあいいじゃねえか。それくらいの余裕を作れねえで、なにが経営者だ、いっちょまえに社長のフリしてんじゃねえぞ、この低能チンカス糞ブタが」
 それだけの言葉を一気に放出すると、杏一郎はまるで憑き物が落ちたような、途方に暮れたような表情を浮かべて、刹那のたがいの沈黙の後、暴言の渦にあっけにとられたまま身動きできずに凍りついている代表にペコリときれいな一礼をかますと、
「では、失礼」
 とだけつぶやいて微笑し、玄関で固い革靴をつっかけるなり風のように螺旋階段を駆け下りていった。

 

 

 

 

 

 

桜のダンス

 おれは床屋に嫌われている。よくしゃべるからである。

 というわけで、散歩に行くことにした。アパートから調布の駅まで歩いて、お金をおろしてから深大寺経由の三鷹行きバスに乗って、途中の御塔坂橋で降り、野川のほとりを布田のあたりまで歩けばいい。

 パーカーだけ着て、外に出た。公園で遊んでいた親子の、ちいさな女の子が笑いながらおれの足もとに駆け寄ってくる。素敵な彼女に手を振りながら去り、前にロト6を買ったみずほで口座の残高を確認すると、十万と四千円である。あの子もまさか、たった十万四千円の男に手を振ったとは思うまいが……自分で税金を払うようになってから、おそらく今、いちばん金がない。とりあえず、四千円おろす。たぶん、今月の家賃と光熱費は大丈夫だろう。一応、月末にいくらか収入の見込みはある。

 バスに乗ると、前の席のじいさんがスマホをさわっている。おれはスマホを持っていない。師匠であるS先生が、詩人たるものスマホなど持つなと言っていたからである。おれは別に詩人ではないが去年スマホを捨てた。だからバスや電車にのっている時間はただ風景をみているうちに流れさる。現代では絶滅しつつある、誇り高きインテリゲンチャである。

 ……などといらんことを考えていたら、目的地の御塔坂を過ぎてしまって、結局深大寺前で降りることになった。鉄の手すりがある石段から野川のほとりに降りる。ひさしぶりに、土を踏む。おれは裸足で土を踏んで、土をさわりながら育ってきた。昔、祖母と妹と、向かいのクリーニング屋のお母さんとその孫のショウキと五人で丸一日かけて堤防をピクニックしたのを思い出す。クリーニング屋のお母さんは、若い頃、蟹江敬三の愛人だったという噂があったが真偽のほどは永遠に不明である(いまはクリーニング屋は辞めて、スーパーの総菜売り場でコロッケを揚げている)。そのクリーニング屋の家の裏には地平線までひろがる水田があって、春先の田植えの時期にはそこにいっせいに水がはられてほんとうの海みたいになっていた。海のない町に育ったおれは、毎夜寝る前に、二段ベットの横の窓からその風景を眺めて、いったいあの向こうには何があるんだろうかとしきりに想像していたものだった。そしていま、おれはその”海の向こう側”にいるわけだが、ここには特別なものなど何もないのである。

 もう、桜はほとんど散ってしまった。今年も、桜のダンスを逃してしまった。花筏、というほど大げさでもないが、桃色の花びらが川面にたまっている。まちの川だから、地元のきれいな澄んだ川みたいにたくさんの魚は泳いでいない。ときどき、鯉の背びれが波を立てるだけである。

 切り株にネイビーの帽子のじいさんが座っている。石を投げて、水切りのようなことをしている親子もいる。少年が汗をふき出しながら自転車を漕いでいる。そんなに急いでどこに行くのか。いくつかの橋をこえてゆくと、そのうちに川幅はせまくなって、菜の花が視界を埋め尽くす。いちめんのなのはな、というイメージではなく、高さにずいぶんと差があるので立体的な菜の花の積み重ねである。

 痩せたばあさんが、左手にちいさな花束をもって通り過ぎてゆく。

 ある橋の横に、電線を通すための、幅1メートルくらいの、手すりのない鉄の橋が架かっている。立ち入り禁止になっているが、小学生の頃のおれだったら確実に挑戦していただろうと思う。じっさい、そういう橋に挑みまくって、しょっちゅう職員室に呼び出されていた。おれたちは夏には田んぼと用水路の間にはさまっている木の板(水量調節用の)を勝手に引っこ抜き、冬にはビニールハウスに雪玉の砲撃を浴びせて大人たちを本気で怒らせた。幼なじみのシュンは、登下校中に通りすがりの軽トラに雪玉を当てることを生業にしていた。曰く、ミラーに当たれば百点。六年間、父親たちや近所のおやじや担任の先生から何度げんこつを食らっても、悪戯だけはぜったいにやめなかった。

 みんな、いまはどこで何をしてるのか。

 調布七中(七中!さすが東京……しかし、おれは“ウランバートル二十一中”の存在を知っている)の横を過ぎると、カキーン、という音が左からきこえてくる。こんなところに、バッティングセンターがあった。いままで知らなかった。散歩でここまで来たことがないからである。

 一打席二十五球、二百円。いまどき良心的な値段である。夕方だからガキたちが何人か来ていて、空いているバッターボックスは115キロのところだった。

 115キロでは、ちと物足りない。が、とりあえずはお金をいれてみる。バッティングセンターなんていつ以来か。たぶん、二~三年前、友人のテツに車を運転させて下呂温泉に行ったときに、岐阜のどっかの道沿いにあった店に衝動的に入ったとき以来だ。テツとは高三のときに同じクラスで、大学もいっしょだったからずっと仲がいい。ふたりでチェコに行ったこともある。プラハの旧市街のすべての路を歩いて、バスで、チェスキークルムロフという田舎の町にも行った。あれはまったく、絵本のような町並みだった。テツは、いまは京大の先生になった。高三のとき、受験期に入って形骸化した体育の授業で、もうひとり工藤という歯医者の息子と三人でえんえんと卓球をやっていたのもよくおぼえている。工藤とは週に一回はいっしょにラーメンを食いにいく仲だったけれども、どういうわけかやつは年月の経過とともにケツだけがプリプリと太っていく体質で、卓球のときもでかいケツをプリプリ振りながら強烈なサーブを繰り出していて、テツはなんの躊躇もなく「おい、ケツデカ!」などと罵倒しながら蹴りを入れていたが、心根のやさしいおれはそんなこと言えず、しかし四年前に医者になった工藤と六本木のタイ料理屋で再会して酒をおごってもらったときにはモデルみたいな彼女の写真を見せられたから、やっぱケツデカって呼んどけばよかったな……と後悔したのも今となっては後の祭りである。

 カランカランと二百円を投入すると、おれは備えつけのバットを引き抜いて、一度も素振りをせずに打席に立った。ばかゴリも素振りしてなかったしな……

 ところが、球が飛んできて驚いた。まったくカスリもしない。(115キロなんて、蝿が止まるぜ)と思っていたのに。札幌のバッティングセンターに北くんやテツといったときには、120キロでも余裕でホームランにしていたのに、である。後ろで待っていた高校生のガキ二人にクスクスと嘲笑されながら、おれは無念の二十五球を気持ちよく振りぬき、安打ゼロのまま退店した。

 野川を離れ、すっかり憔悴の体で布田のほうへと歩きながら、(明日から毎日ちょっとでも素振りして、今度は一球でも打ち返せるようにしよう)と思った。が、そんな練習をしてはたして何になるのか。今さらバッティングセンターで数本ヒットを打って、それになんの価値があるのか。今回ばかりの話じゃない。やれ中国語を話せるようになろう、やれかんたんな料理をおぼえよう、やれ詰め将棋をやろう。そんな思いつきの努力ごっこばかりやってきた結果が、この体たらくである。口座に十万円しかない、二十九歳、169センチ、71キロである。いったい何ができるというのか? こんなおれに……学生のとき以来の、71キロのおれである。おなかが若干ぽっこり出て、足も太くたくましく、顔もほどよく丸みがあってルックスという観点からはたいへん好ましいけれども、運動能力やスタミナを加味したベストの体重はもっと下にある。つまり、経験上、63.5キロである。しかし、ルックスが好ましいというのも、ほんとうか。

 なんの話だったか。つまり、一杯やらなければ気が済まないのである。夕陽のさす布田の商店街を通り抜ける。ここには昔ながらの魚屋と中華料理屋があって、中華料理屋はそれなりにおいしい。が、今日は寿司の日である。調布の駅前の居酒屋に入り、寿司と焼き鳥を肴に、大ジョッキのジンジャーハイボールを立て続けに二杯あおる。おれはジンジャーハイボールが好きで、安い店に行くと、だいたいこれを飲んでいる。高い店では、知ったかぶりをして黒龍(福井の)とかゴビ砂漠のワインとかを飲むのである。そういうところは、父親譲りの悪癖である。

 酔っぱらって帰り路につくと、もう、夜の帳がおりてきている。歩こうかとも思ったが、なんだか疲れていてそんな気にならない。たぶん、フルスイングを二十五回もしたのがいけなかった。内臓がゆれるたびに、かすかに痛みが走るのである。夜の電車は窓が鏡のようになる。そこに映ったまぬけなツラは、どういうわけか、赤の他人のように思える。駅を出ると、コンビニのとなりの汚い雑居ビルのまえに、なじみの場末ピン雀荘のマスターが立っていたけれども、とっさのことで、つい気付かなかったふりをして通り過ぎてしまった。常連客のマナーはすこぶる悪いが、老夫婦がニコニコ一所懸命やっている、あたたかい店である。向こうでも、おれだとわかったと思う。

 あの店にも、もう半年くらい行っていない。